首相補佐官「柿崎明二氏」は毎日新聞勤務の過去 転職先で出世した“ヤメ毎”リスト

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 ワイドショーなどでの政治解説でおなじみだった柿崎明二氏が9月30日付で共同通信社を退職し、10月1日付で菅義偉首相(71)の補佐官に就任した。権力を監視する立場から権力側へ。共同関係者からは非難する声が上がっているが、毎日新聞関係者からも同様の声が上がる。柿崎氏は共同への入社前、毎日に勤務していたからだ。待遇面で恵まれない毎日は他社への転職者が多い。

 柿崎明二氏の記者人生の振り出しは1984年に入社した毎日新聞。ただし、88年には共同へ転職した。待遇で恵まれないこともあって、毎日は昔から転職する者が後を絶たない。

 毎日の年収は朝日新聞、読売新聞と比較すると、「おおよそ7割程度」(毎日新聞社員)とされている。

 おまけに毎日には定年退職後の企業年金制度もない。経費も朝日、読売より抑えられている。

「毎日はグループ内に信用組合があり、簡単に融資を受けられるから、教育費などの資金に困ることはない」(同・毎日新聞社員)

 とはいえ、借りたカネはいずれ返さなくてはならない。他社の待遇を知ると、心が動く毎日の社員は少なくないようだ。

 毎日の経営が悪化したのは1970年代。政治部記者が外務省女性官から機密を聞き出した「外務省機密漏洩事件」によってイメージがガタ落ちになった上、販売競争で読売、朝日に後れを取ったからとされている。

 経営悪化と同時期から人材流出が目立ち始めた。記者の質は朝日、読売と遜色がないので、受け入れる側は歓迎した。

「第一志望の朝日などに落ち、最初から先々の転職を考えて入社する不届き者もいる」(同・毎日新聞社員)

 柿崎氏の場合、秋田県立横手高、早大第一文学部を卒業後に毎日へ。4年後に共同へ移ると、大阪支社などを経て1992年に東京本社政治部に配属された。

 60歳の定年を間近に控えた退職前は論説副委員長だった。「ラインではないものの、決して悪くないポスト」(共同OB)。ただし、共同を辞めず、定年を延長しようが、これ以上のポストは得られない。それよりも首相補佐官のポストのほうが魅力的に映ったのかもしれない。

 首相補佐官が具体的に何をするかというと、政策の評価・検証と説明されている。とはいえ、そんなことは記者出身者より学者のほうが向くはずだから、実際には「世論対策とマスコミ対策が役割だろう」(共同OB)という見方が支配的だ。

同期も渋い顔

 柿崎氏の転職には元TBS政治部長の龍崎孝・流通経済大学教授(60)が「がっかりした」と渋い表情を見せた。9月30日放送の同局「ひるおび!」内のことだ。

「権力に入るのはあり得ないと思っているのが私たち(記者)ですから」(同)

 なぜ、龍崎氏が落胆を隠さなかったかというと、やはり毎日からTBSへの転職組で、しかも柿崎氏と同期だからである。

 龍崎氏は千葉県立千葉高、横浜国立大教育学部を卒業し、毎日へ。文章力を高く評価されている記者だった。

 TBSに転職したのは1995年。「報道特集」のディレクターなどを務めた後、政治部長に。柿崎氏と同じく、サラリーマンとして一定以上の成功を収めた。

 転職先でひとかどの出世をする人が目立つのが、毎日OBの特徴なのである。毎日のオンザジョブトレーニングが優れているのか、それとも毎日OBは順応性が高いのか、はたまた力のある人が多いからか…。

 毎日からの転職組でサラリーマンとしては出世頭と呼ばれているのが、TBSホールディングスの武田信二会長(68)である。同局とグルーブの全権を握るドンだ。

 毎日には千葉県立東葛飾高校、京大経済学部を卒業後の1978年に入社。TBSへの転職は91年。毎日では経済記者だったが、同局に移るとCMを扱う営業畑を歩んだ。

「他社から来た武田さんがこんなに偉くなるとは、プロパー社員は誰一人思わなかったはず」(TBS社員)

 TBSは人材の宝庫だからである。武田氏はまずトラブルシューターとして頭角を現した。

 大口スポンサーである大手家電メーカーが、故・筑紫哲也の発言をめぐって強い不快感を示したとき、武田氏が経済記者時代の人脈を駆使して収束させたのだ。

一方、産経は…

 さて、毎日からほかの新聞への転職は多いが、産経新聞への転職はまずない。産経も待遇で恵まれない上、三大紙である自分たちのほうが格上という意識があるせいだろう。

 ただし、例外もある。大物記者が一人、産経に転職した。古森義久氏(79)である。現在も米国ワシントン駐在客員特派員として健筆を振るっている。

 古森氏は慶応大経済学部卒業後の1963年、毎日に入社。初任地は静岡支局で、やがて社会部に配属され、警視庁などを担当した。

 八面六臂の活躍を見せたのは外信部に移ってから。1972年にはベトナム戦争中の南ベトナム・サイゴン特派員に。75年にはサイゴン支局長に就任した。

 1976年にはベトナム戦争終結時の報道により、ボーン国際記者賞(現ボーン・上田記念国際記者賞)を受賞。スター記者の仲間入りを果たす。

 1982年には国会を揺るがした「ライシャワー核持ち込み発言報道」によって日本新聞協会賞を受賞。超弩級と言えるスクープだった。ところが、外信部副部長などを務めた後の87年に退職し、産経のロンドン支局長に転じる。

 古森氏の場合、転職の理由は待遇とは無関係。どこで記者生活を送ったほうが、自分にとって取材と執筆がしやすいかを考えたようだ。毎日と産経では論調が相当違うが、古森氏と毎日関係者の付き合いは途絶えず、良好な関係が続いている。

個性的な「毎日」退職者たち

 NHKやほかの民放に転職した人はいる。けれど、ジャーナリストの佐々木俊尚氏(58)のようにアスキーに転職し、パソコン雑誌「月刊アスキー(休刊)」の編集者になったというケースは変わり種だろう。記者の多くは昔も今もパソコンが苦手だ。

 佐々木氏は愛知県立岡崎高を卒業し、早大政経学部中退後の1988年に毎日に入社した。中退という学歴を奇異に感じる人がいるかもしれないが、79年から毎日の入社試験は学歴不問。今ではソニーなども学歴不問だが、毎日はその導入が早かった。

 在職中は警視庁などを担当。退職は1999年。現在は総務省の情報通信白書編集委員も務めている。どんなことが白書には書かれているかといえば、第5世代移動通信システム(5G)の現状など。やはり、ほかの退職組とは一味違うものの、ひとかどの成功を収めたのは間違いない。

 テレビ朝日のキャスターに転じたのは鳥越俊太郎氏(80)。久留米大学附設高から京都大文学部に進み、1965年に毎日に入社した。

 大阪社会部や外信部テヘラン特派員などを経てサンデー毎日編集長に。1989年には退社し、テレ朝の「ザ・スクープ」のキャスターになった。作家の澤地久枝さん(90)がテレ朝のドンと呼ばれていた小田久栄門元取締役編成局長に推薦した。

 鳥越氏もキャスターとして一定以上の成功を収めている。「桶川ストーカー殺人事件」報道で2001年、日本記者クラブ賞を得た。

 2016年の都知事選で小池百合子氏(68)に敗れた後は画面で見掛けないが、今もジャーナリストとして活動中。週刊誌誌面や動画などに登場している。

 最後に別格なのが故・安倍晋太郎元自民党幹事長。書くまでもなく安倍晋三前首相(66)の実父だ。

 旧制第六高、東大法学部を卒業後の1949年、毎日に入社。もっとも、それは記者の立場で政界を見るためだったとされている。当時は毎日と朝日が新聞界の両雄だった。

 晋太郎氏の父・寛氏は山口県の県議や衆院議員などを務めた有力政治家。実家は江戸時代には庄屋で、地元きっての名家。晋太郎氏は政治家になることが宿命付けられていた。

 入社から2年後の1951年には故・岸信介元首相の長女・洋子さん(92)と見合い結婚。56年には外相秘書官に。58年の総選挙で初当選した。

 退職者が多いだけでなく、退職者の個性も新聞界ナンバーワンに違いない。

山本幸夫/ライター

週刊新潮WEB取材班編集

2020年10月11日掲載

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