大法院と文政権の言い分なら、韓国最大の繁華街の日本返還は必至

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「No Japan」で閑古鳥が鳴く「明洞」は、日本が建設した

 ソウルの繁華街、明洞は新型コロナウイルスの影響で閑古鳥が鳴いている。明洞は韓国を代表する繁華街で、日本の地方都市に銀座の別称を持つ繁華街があるのと同様、韓国も「春川明洞通り」など、地方都市に「明洞」の名を冠した通りがある。その明洞には20世紀はじめ、韓国に居住した日本人の商店街として誕生した歴史がある。

 明洞は、朝鮮時代には明禮坊(ミョンレバン)と呼ばれ、1914年に明治町へと改称された。

 明禮坊の明と明治町の明、また明るく発展する願いを込めて「明」1文字に日本の丁目や字に相当する「洞」をつけ、戦後、明洞と名付けられた。

 統治時代に日本人が商店街を形成した明治町は明洞(ミョンドン)、隣接する本町は忠武路(チュンムロ)、黄金町は乙支路(ウルチロ)となり、明洞地域の繁華街を形成している。

 朝鮮時代の首都・漢城(後の京城、現ソウル)は清渓川を挟んで、北側の北村と南側の南村に分かれていた。

 北村は上位階級の居住地で、南村は武官や下層貴族の居住地だった。朝鮮王朝はいわゆる賎民の首都居住を制限していた。

 1870年代、朝鮮が開国すると外国人の居住が始まり、85年、朝鮮王朝は現在の忠武路にあたる南山の北麓を日本人居留地として指定した。

 朝鮮政府は北村に外国文化が浸透することを好まず、西欧諸国や中国、日本の公館は清渓川以南か以西に配置された。

朝鮮王朝は日本人を蔑んだ

 日本の公使館は、当初、西大門に建てられたが、1884年の甲申事変で焼き払われると、日本人居住地を見渡す南山麓に移転した。

 新たな公使館は1945年まで日本政府が公館として使用し、戦後には連合参謀本部として使われた。

 朝鮮政府は、北村に最も近い清渓川南岸を清国人に割当て、その一方、日本人を蔑んで、清渓川から最も離れた南山北麓を居住地に指定したが、1894年、日本が日清戦争に勝利すると漢城に住む日本人が急増した。

 南村は十分な商業圏が形成されておらず、居住も不便で、日本人商人は北村への進出を求めたが、朝鮮商人の抵抗と清国商人の圧迫を受け、北進できなかった。

 そこで、日本人は日本領事館と日本居留民総代役場、商業会議所などを居住地の端に新築し、居住と商業活動の拠点とした。

 日本が韓国を併合すると南村の日本人はさらに増加して、日韓併合から5年後の1915年、京城府に居住する日本人は6万3千人弱となり、首都人口24万1千人の26%を占めるに至った。

 1925年、統治政府が行なった国勢調査によると、南村に居住する日本人は4万3千人余で、南村居住者全体の52.7%を占めていた。

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