シンガポールの人間扱いされない「外国人メイド」 冤罪、暴行、タダ働きの深い闇

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検察が不正?

“盗んだ”とされた品々について、パルティさんはいずれも自らの私物、またはリュー一家が捨てた品やプレゼントだと主張していた。実際、裁判の過程で、高級時計のベルトが切れていたり、DVDプレーヤーが故障し、殆ど使用不可能の状態にあることが明らかになっている。普通、わざわざこんなものは盗まないだろう。

 にもかかわらず、当初、検察は壊れたDVDプレーヤーを「使用可能」と判断し証拠に採用していた。さらにこうした“盗品”を調べたのは、リュー一家が被害を訴え出てから5週間も経ってからだったりと、杜撰な対応を行っていた。無罪を下した高裁の裁判官は、検察が第一審で証拠品が“不良品”でなく使用可能だと虚偽の立証をしていた疑惑を指摘している。

 この事件の根が深いのは、検察トップであるルシエン・ウォン検事総長が、リュー氏と近しい間柄であることだ。リュー氏がアジア太平洋地域最大級の不動産開発会社で日本でも事業展開する「キャピタランド」の社長を務めていた時期、ウォン総長は同社の取締役だった。パルティさんに無罪判決が下されたその日、検察は「ウォン総長とリュー氏は個人的に親しい関係にない」と、弁明ともとれる発表を行っている。

 晴れて無罪となったパルティさんは「4年間、母国・インドネシアにも帰れず、自分に強く、権力にひるむことなく闘ってきた甲斐があった」「リュー一家を恨んではいない。むしろ、許したいと思っている。ただ、2度と、私が経験したようなことが誰にも降りかからないことを願うばかりだ」とコメントしている。彼女は現在、捜査に関わった2人の検察官の懲罰処分を求める訴えを起こし、リュー一家には16年の解雇から今年9月の無罪判決までの期間に相当する給与の支払いを求めている。

 国の重鎮に、警察や検察は忖度したのか――シンガポールの司法システムの公平性そのものが問われかねないこの事件に、「パルティさんの事件は、格差社会のシンガポールでは誰にでも起こりえる恐ろしいできごと」と国民からは激しい怒りの声が上がっている。先述の通り、リュー会長は無罪判決から1週間後の9月10日、すべての要職を辞任することを明らかにした。ただし、

「私と家族は警察に全面的に協力し、必要に応じ証拠提出や証言を行った」

 と、不正行為については否定している。弁護士で外相も歴任したシンガポールのシャンムゲム法務・内務大臣は「判決を真摯に受け止め、関係当局は再調査を行う」としており、11月中に政府見解としての発表が行われる見通しだ。

メイド残酷事例集

 パルティさんの事件は、シンガポールにおけるメイドが置かれた不条理な状況を浮き彫りにしているともいえる。

 人口570万人のシンガポールは、外国人労働者の積極的な受け入れで急成長を果たしてきた。メイドは、外国人労働者の20%以上を占め、その数は25万人にも及ぶ。中間層から超富裕層まで、5世帯に1世帯が、月給相場400~600シンガポールドル(約3~5万円)でメイドを雇っている。彼女たちは家事や育児、介護要員として求められ、インドネシアを筆頭に、フィリピン、ミャンマー、タイ、スリランカ、中国、インドといった国々から、シンガポールにやってくるのだ。

 だが、メイドが被害者となる問題は噴出している。オーストラリアの民間コンサル会社「リサーチ・アクロス・ボーダーズ」の調査報告(2017年11月)は、シンガポールの外国人メイドの約60%が雇用主から搾取されているという実態を報告している。

 2017年3月には、40代のフィリピン人のメイドに十分な食事を与えなかった夫婦が収監された。高級住宅街オーチャード・ロードのマンションに住み込みで働いていた彼女は、少量のインスタントラーメンとパン数切れといったと食事を1日2食しか許されなかった。そんな生活を1年3カ月強いられた結果、49キロあった体重は29キロにまで減ったという。

 昨年3月には、30代のミャンマー人のメイドを虐待したとして、夫婦に実刑判決が下されたケースもあった。裁判資料によると、メイドは夫婦から殴る蹴るの暴行を受けており、下着姿で家の掃除も強要されていた。食事もほとんど与えられず、トイレの使用も制限。「虐待を通報したらミャンマーの両親を殺す」と脅されてもいたという。食事を要求すると、砂糖と米を混ぜた物をじょうごで無理やり流し込まされた。吐くためにトイレに駆け込むと、夫人から平手打ちを受け、さらに自分の吐しゃ物を食べるよう強要されたという。

 今年になってからも、ミャンマー人のメイドの顔などをガラスのビンで殴ったシンガポール人女性が、14カ月の収監を言い渡された事件があった。マグカップをメイドに投げつけて鼻に障害を与え、再教育矯正訓練を言い渡された20代のシンガポール男性もいる。

 NPO団体「Home」は、そうした不当な扱いを受けたメイドを保護する活動を行っており、2018年には約900人のメイドを保護したという。保護されたうちの一人であるインドネシア人メイドは、10年間も無賃金無休で働かされたという。「Home」の関係者は次のように語る。

「個人の家庭という極めて密室化された場所で起こる問題は、外から確かめることが難しい。また、メイドのほとんどが、母国に残してきた家族の稼ぎ頭であることが多い。だから告発をためらう場合も少なくなく、効果的な防止策をとることが簡単ではないのです」

 あくまで“臨時の労働力”と位置付けられているメイドに対する、制度上の問題もある。例えば、勤務時間。「家事労働の時間や日数を規制するのは実用的でない」と、労働時間は定められていないのが実態だ。さらにシンガポールは先進国の中でも異例なことに、最低賃金が制定されていない。シンガポール人ら労働者の賃金低下につながっている、と7月の総選挙でも争点となり、最低賃金制度の制定を政府に求めた野党が大躍進した。(記事『シンガポール「リー首相」が総選挙中に兄弟ゲンカ 弟が野党入党、兄の独裁を大批判』参照)

「パルティさんはいきなりクビを宣告されたが、“解雇の事前通知”を定めた法律も、メイドは対象外になっている。シンガポール人および外国人永住者と結婚するには政府の許可が不可欠であり、彼ら配偶者以外との間で子どもをつくれば、帰国させられることになる

「低賃金の外国人労働者を厳格に管理することで、シンガポールでの定住化や社会保障費の増大を防ぐ意図があるのです。そこに人権保護の意識は抜け落ちています」(先述のNPO「Home」の関係者)

 シンガポールはメイドなしには成り立たない国である。しかし、彼女たちの置かれた状況は、雇い主である“一般国民”と比べて極めて過酷だ。イタリアのジョン・カボット大学やシンガポール経営大学で准教授を歴任し、現在は台湾大学上級研究員などを務める東南アジア情勢の専門家、ブリジット・ウェルシュ博士は次のように筆者の取材に答えた。

「シンガポールは、今、分断された社会になった。格差問題には政府の対応が迫られており、国を大きく揺るがす深刻な事態だ」

末永恵(すえなが・めぐみ)
マレーシア在住ジャーナリスト。マレーシア外国特派員記者クラブに所属。米国留学(米政府奨学金取得)後、産経新聞社入社。東京本社外信部、経済部記者として経済産業省、外務省、農水省などの記者クラブなどに所属。その後、独立しフリージャーナリストに。取材活動のほか、大阪大学特任准教授、マラヤ大学客員教授も歴任。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年10月8日掲載

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