「ルビー・モレノ」をスカウトした 「稲川素子」が明かす86年の波乱万丈な人生

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連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに救われた日

 テレビや映画の舞台に送り出したタレントは総勢1万人以上――。少女時代を救った超大物からあのお騒がせ女優への想いまで、業界屈指の「外国人タレント事務所」を一代で築いた稲川素子さん(86)が、一途に歩んだ半生を語った。

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 私の父は福岡県柳川市の旧家に生まれ、若い頃にはヨーロッパで何年も「遊学」できるほど恵まれた環境で育ちました。

 柳川の実家は1万坪の敷地の中にテニスコートが2面あるほどの屋敷で、別府にあった別荘にはグランドピアノが置かれていたことを覚えています。

 私は戦況の悪化を受け柳川の父の実家に疎開し、小学校6年生の時に終戦を迎えました。

 我が家は戦後の農地改革で「不在地主」として土地を没取され、家計がどん底になり、日本の食糧不足も現在では想像も出来ないような状況でした。

 サツマ芋の蔓やカボチャの葉を食べて、飢えをしのいでいた記憶があります。

 幼少時代の私は、通信簿に「腺病質」とかかれるような虚弱体質なうえ、そういった食糧事情がたたり、高校入学後には、極度の貧血で入退院を繰り返していました。

 今思えば独りよがりなのでしょうが、当時の私は「原爆の後遺症で白血病になったのではないか」と思い悩むほどでした。

 というのも、1945年の8月9日、私は長崎市に投下された原爆雲を目撃していたからです。

 ドーンという地響きを感じて防空壕を出ると、火山の噴火のような大きなキノコ雲が浮かんでいるのが、柳川からもはっきり見えたんです。

――疎開先から東京に戻り、「山手線の階段も上がれない」ほど弱っていた稲川さんを救ったのが、驚くことに連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーだった。

マッカーサーは同じように私を招き、「Have a lot」と…

 当時の私は、ミッションスクールの女子聖学院高等部に通っていました。

 体調が良いときは、学校で級友と語らい、ピアノを弾くのが何よりの楽しみでした。

 女子聖学院は当時から土日が休みで、日曜日は教会に礼拝に行くよう定められていたのですが、高校2年の時に国会議事堂の真向かいにあったチャペルセンターという教会の聖歌隊に参加するよう学校から推薦されました。

 チャペルセンターは主に進駐軍の軍人が集まる教会でしたが、マッカーサー夫妻と息子さんも日曜日の礼拝に来ることがあったのです。

 ある日の礼拝の後、私が歌い終わり壇上から降りた時、マッカーサーが私の手をそっと握り肩に手を置くと、裏庭の木陰のテーブルまで私を連れ出しました。

 しばらくすると、教会の人がベーコンエッグと、パンとバター、ミルクを運んできてくれたんです。

 マッカーサーから身ぶりで食べるように勧められ、夢の様なごちそうを頂きました。

 初めて食べたベーコンはちょっと塩辛くて、何度も何度もかんで飲み込みました。

 その翌週も、マッカーサーは同じように私を招き、「Have a lot」と食事を勧めてくれ、後には私が1人で食事をしているのが寂しく見えたのか、友人も一緒にベーコンエッグをいただくのが習慣になりました。

 極度の栄養失調による貧血で青白い顔をした私を可哀そうに思っての厚意だったのでしょうが、当時は街中でも決して見られないような貴重な食事をいただきながら、「私たちはこんな人たちと戦争をしていたのか」という思いが心に強くよぎりました。

 今でも誕生日とかお祝いの席では必ずマッカーサーを偲んで、ベーコンエッグを一皿出すようにお願いしています。

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