【「原節子」の後半生】出席者は4人! 遺影も飾らなかった秘密葬儀ドキュメント

芸能 週刊新潮 2015年12月10日号掲載

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 1963年12月、敬慕する小津安二郎監督(享年60)の通夜に姿を現したのを境に一切の活動を休止し、表舞台から姿を消した原節子(本名・會田昌江)。そんな彼女に“異変”が生じたとの情報が駆け巡ったのは、11月25日の夜であった。

 さる全国紙文化部デスクが、当日を振り返る。

「その端緒は“會田家の関係者が、周囲に喪中はがきを出したらしい”という伝聞情報で、すでに他社にも一斉に広まっていました」

 記者たちが向かった先は、自宅のある鎌倉・浄妙寺。同じ敷地内で別棟に住む甥の熊谷久昭さん(75)に安否を確認したところ、当初は十分な裏付けが得られなかったといい、

「一旦は現場を離れたものの、混乱は収まらず浮き足立っていました。そこにいち早く、共同通信が死去の一報を流したため、各社とも再び鎌倉で食い下がり、ようやく事実確認ができたのです。辛うじて分かったのは、親族5人に看取られて亡くなり、すでに都内で埋葬を済ませたということでした」(同)

 体調を崩し、8月中旬に神奈川県内の病院に入院した原節子は、肺炎と診断され、9月5日に息を引き取った。実に2カ月半もの間、故人の遺志でその終焉は秘されていたのだった。

 今回、葬儀から納骨に至るまでの一部始終が、関係者の証言で明らかになった。それは、神格化された大女優には、およそ似つかわしくない最後であった。

「通夜は翌6日、葬儀は7日に、神奈川県逗子市にある斎場で営まれたそうです。出席したのは、喪主である甥の熊谷さんとその妻、そして長兄の息子など、わずか親族4人だけでした」

 とは、會田家の事情に通じる関係者である。

「事前に遺族側が斎場と打ち合わせをし、故人の身元を明かした上で“一切外に漏れないようにしたい”と、強く希望したのです。このため斎場には『會田家』『會田昌江』といった案内板も掲げられず、ごく小さな部屋を借りて執り行われました。都内の下町にある會田家の菩提寺から住職が駆け付けたといいます」

 式典の最中は、斎場の職員でさえ完全シャットアウトという、徹底した態勢が敷かれていた。

「祭壇には、参列者が供えた花が4本立てられていただけで、あとは位牌のみという簡素なものでした。遺影については、映画の撮影時、40歳前後の頃に撮られたと思われる和装のモノクロ写真を遺族が用意していたようなのですが、結局2日間を通じて、その写真が祭壇に飾られることはありませんでした」(同)

 さらには、

「『亡くなった時の顔は見せないでほしい』という故人の遺志があったとのことです。最期まで『魂は女優』だったのでしょう」(同)

 比類なき美を誇った往時からは、想像もつかないセレモニーだったというのだ。

3歳上の姉は…

 出棺は7日の13時。斎場からほど近い火葬場へと移された亡骸は、やはり周囲から気付かれぬようにして荼毘に付された。

 それから1カ月半後、日曜日の昼時である。下町の名刹に、喪服に身を包んだ一団の姿があった。

「本来であれば10月23日が四十九日にあたりますが、日曜が都合が良いだろうということになり、少し早めの18日に法要を行ったのです」

 とは、さる遺族関係者。この日は親族ばかり、20人ほどが参列したという。

「11時から1時間ほど住職が読経した後、父母やきょうだいが眠るお寺の墓地に納骨しました。本人は、引退してからも時々この寺に墓参しており、ついでに今は亡き先代の住職のもとをこっそり訪ね、説法を受けることもあったと聞いています」

 原節子は2男5女の末っ子にあたる。実は、その死から5日後の9月10日、三姉が106歳で亡くなっていた。さる親族が明かす。

「3年ほど前から施設に入所しており、亡くなる1週間前に見舞ったときはハイタッチするほど元気でしたが、妹の死を伝えずじまいのまま、後を追うように老衰で逝ってしまいました」

 現在、7人きょうだいでは98歳になる四姉だけが存命である。若かりし頃には“原節子に勝るとも劣らない美人”と称えられ、付き人を務めていたこともある3歳上の彼女は現在、都内で暮らしているという――。

 早朝の住宅街で、ジャージ姿にニット帽の老女をお見かけした。手には飲料を持ち、背筋を伸ばしてゆるやかな足取りで散歩から戻ってくる。矍鑠とした佇まいは、せいぜい70代といったところで、大きな目や存在感のある口元は故人を紡佛とさせる。あらためて愛妹について尋ねると、

「お陰さまで、大往生でした。もう胸がいっぱいで、何もお話しすることができません……」

 そう言葉をふり絞るばかりであった。

『原節子のすべて』新潮45特別編集 DVD付録付き

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