名球会入り目前で引退表明の「藤川球児」 日米通算250セーブを達成したのはたった3人

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 火の玉ストレートを武器に日米通算245セーブ(2020年9月20日現在)をマークした藤川球児が今シーズン限りで現役を引退する。抑え投手の一つの重要な区切りであり、日本プロ野球名球会入りの条件でもある日米通算250セーブまであと“5”と迫ったなかでの重大な決断であった。

 この突然の表明を受け、気になったことがある。これまでに日本プロ野球のみ、もしくは日米通算で250セーブを挙げた日本人投手は何人いるのかということだ。200セーブ以上記録した投手はちょうど5人いる。まずは日本球界だけの数字で並べてみると以下のような結果となる。

1 岩瀬仁紀(中日ドラゴンズ) 407
2 高津臣吾(東京ヤクルトスワローズ) 286
3 佐々木主浩(横浜ベイスターズ) 252
4 藤川球児(阪神タイガース) 243
5 小林雅英(千葉ロッテマリーンズなど)228

 これにメジャーリーグでの成績を加えてみた。以下が最終的な日本人投手の歴代セーブ数ベスト5である。

1 岩瀬仁紀(中日ドラゴンズ) 407(NPB407/MLB0)
2 佐々木主浩(横浜ベイスターズなど) 381(NPB252/MLB129)
3 高津臣吾(東京ヤクルトスワローズなど) 313 (NPB286/MLB27)
4 藤川球児(阪神タイガースなど) 245(NPB243/MLB2)
5 小林雅英(千葉ロッテマリーンズなど) 234 (NPB228/MLB6)

 結果、1位の座には圧倒的な差で岩瀬仁紀が輝いた。岩瀬は1999年のプロ1年目から勝ちパターンの中継ぎとして活躍していたが、04年に落合博満が監督に就任すると、本格的に抑えに転向することに。

 すると翌05年には、当時の日本プロ野球新記録となる46セーブを早くもマークする(現在はセ・リーグタイ記録)。以後、06年、09年、10年と実に4度も40セーブ以上を達成し、この4年に12年の33セーブを加えた5度も最多セーブ投手のタイトルを獲得した。これは江夏豊(元・広島東洋など)、赤堀元之(元・近鉄)、そして佐々木主浩と並ぶ最多タイ記録となっている。

 99年のプロ1年目から18年の引退まで実に20年にも渡って第一線で活躍してきた結果、15年連続50試合以上登板や11年連続10&20セーブ以上達成、9年連続30セーブ以上達成といった日本プロ野球記録を打ち立てた。

 前人未到の1002試合登板で積み上げたセーブ数407を超える投手は今後現れないと思われる。ちなみにこの1002試合中、先発投手としてマウンドに登ったのは、わずか1回のみ。まさに“鉄人”“鉄腕”であった。

 続く2位はNPB記録では高津臣吾だが、MLBとの合算記録で“大魔神”佐々木主浩が高津をかわして2位に浮上した。プロ2年目の91年途中から抑えに抜擢されるといきなり6勝9敗17セーブをマークし、翌92年は開幕から1年間抑えで起用され、最優秀救援投手に輝いている。これ以後、00年にメジャーリーグへ移籍するまでの7シーズンで計189セーブを記録している。その間、95~98年には4年連続で最優秀救援投手のタイトルに輝いた。92年と合わせて計5度の獲得は前述した通り、日本プロ野球界において最多タイ記録となっている。

 なかでも98年は51試合に登板して防御率0・64(自責点4)という抜群の安定感を誇った。これは30セーブ以上マークした投手の中でも歴代トップでもあった。結果的にこのシーズンは22試合連続セーブ、史上初の2年連続30セーブ達成、史上初の40セーブ越えを達成、さらに当時のプロ野球記録でもある45セーブをマークするなど、日本新記録ラッシュとなる。これまで江夏豊が保持していた通算193セーブの日本記録を抜いたのもこの年である(シーズン終了時点で210セーブにまで達していた)。リーグ優勝と日本一も成し遂げ、名実ともに日本プロ野球界No.1ストッパーの座に君臨することとなったのだ。

 この後、00年にFA権を行使してメジャーリーグへ移籍すると、シアトル・マリナーズでも抑えとして活躍した。4年間で日本人選手としては最多となるMLB通算129セーブを積み上げたが、37セーブをマークした移籍1年目の00年には新人王にも輝いている。04年には日本球界へ復帰し、05年に現役引退しているが、この2年間で23セーブを挙げた。この23セーブを上積みしたことで、佐々木は日本だけでも250セーブに到達している。

 最終的には日本プロ野球歴代3位となる252セーブを記録し、これにメジャーでの129セーブを合わせると計381セーブとなるが、日本人史上初の通算300セーブ達成者が実はこの佐々木であった。まさに抑え投手として一時代を築いた存在だったといえよう。この佐々木に次ぐ3位には“魔球・シンカー”を武器に日本プロ野球歴代2位の通算286セーブをマークした高津臣吾がランクインした。

 入団3年目の93年にプロ初セーブを記録すると、当時の球団記録を更新する20セーブを挙げてチームのリーグ優勝と日本一に貢献し、翌94年には19セーブを挙げ、自身初となる最優秀救援投手を獲得している。

 この後も99年、01年、03年と計4度もこの賞に輝いた。特に01年は自己最高となる37セーブを記録し、チームをリーグ優勝に導いている。さらにその後の日本シリーズでも自身の持つ日本シリーズの通算セーブ数を8に更新し、かつ連続無失点も継続する大活躍で、チームの日本一の立役者の1人となった。ちなみにこのときの日本シリーズでの登板が高津にとっては現役最後となった。そのため、無失点で現役を終える形となっている。

 この2年後の03年には佐々木主浩の持つ通算229セーブの日本ブロ野球記録を更新する通算260セーブの新記録を達成し、セ・リーグ連盟特別表彰を受けている。つまり高津は佐々木と違って、メジャーで登板する前にすでに日本で通算250セーブ以上挙げていたのだ。

 そしてこの年オフにFA権を行使してメジャーリーグへと移籍した。所属したシカゴ・ホワイトソックスでもクローザーとして起用され、1年目の04年には24試合連続無失点を記録する大活躍をみせている。

 ただ、メジャーでのプレーは2シーズンに留まり、計27セーブと期待を裏切る形となってしまった。

 そのため翌06年には入団テストを経て3年ぶりにヤクルトに復帰することとなった。この年の10月にはNPB/MLBで通算300セーブをマークしている。これは佐々木主浩に次いで史上2人目となるNPB/MLB通算300セーブ達成という大記録でもあった。

 結局、復帰したヤクルトでは2年間で26セーブを記録した。日本では15年間で286セーブ、メジャーでも2年間プレーし、27セーブを挙げ、通算313セーブまで記録を伸ばしたのだった。

 なお、07年オフにヤクルトを退団してからは、名球会入りの条件にはならないが、韓国球界や台湾球界でもそれぞれ1年間抑え投手としてプレーし、前者では8セーブ、後者では26セーブを挙げていることを付け加えておきたい。

100ホールドと100セーブ達成の藤川

 ここまでの3人が、現在までに名球会入りしている抑え投手である。そしてこの3人に続く4位にランキングされたのが藤川球児なのだ。むろん、日本プロ野球の現役最多セーブ記録243の保持者ということである。

 そんな藤川はプロ6年目の04年に先発から中継ぎに転向すると、シーズン後半には1軍に完全に定着し、31回を投げて35奪三振、防御率2・61という好成績を収めた。

 すると翌05年にはセットアッパーに抜擢され、久保田智之、ジェフ・ウィリアムスとともに“JFK”と呼ばれる勝利の方程式を形成することとなる。プロ野球記録となる17試合連続ホールドをマークするなど、終わってみれば53ホールドポイントをマークし、自身初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手を獲得するという活躍ぶりであった。

 この翌年も2年連続の最優秀中継ぎ投手を獲得すると、07年にはついに抑えに抜擢されることとなる。シーズン終盤にはリリーフ投手として史上初となる3年連続100奪三振、セ・リーグ記録となる10試合連続登板など、大車輪の活躍ぶりをみせ、最後には岩瀬仁紀と並ぶ、当時の日本タイ記録となる46セーブ目をマークし、初の最多セーブ投手を獲得している。

 その後、13年にメジャーへFA移籍するまでの5年間で計156セーブを記録した。その間、08年に通算100セーブを、12年には通算200セーブを達成している。また11年には同点の場面で登板した試合で1回を抑え、通算100ホールドを記録した。これによって藤川は史上初の通算100ホールドと100セーブの2つを達成した投手となったのである。

 さらにこの年は41セーブを挙げて2度目の最多セーブ投手に輝いている。13年からの3シーズンはメジャーでプレーした。ところが利き腕の右腕の故障もあり、シカゴ・カブス在籍時代の13年に挙げた2セーブのみに終わっている。

 その後、独立リーグ・四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスを経て16年に阪神に復帰し、昨年までの4年間で21セーブを積み重ね、日米通算で243セーブにまで到達したのであった。

 今シーズンは2セーブを挙げており、区切りとなる日米通算250セーブまであと5と迫っている。現役引退が迫るなか、果たして史上4人目の偉業なるのかに注目だ。

 最後の5人目は惜しいところで250セーブに届かなかった名ストッパーである。千葉ロッテマリーンズ時代は“幕張の防波堤”という異名を取った小林雅英だ。プロ2年目の00年のシーズン途中から抑えに起用されると、いきなり11勝6敗14セーブの好成績をマークした。その勝利のなかにはプロ野球史上初となる“打者0人”での勝利投手という非常に珍しい記録も含まれている(同点の場面で登板し、投じた2球目が暴投となったため、一塁走者が三塁を狙ったものの、アウトになった。その直後にチームが勝ち越したため、勝利投手となっている)。

 翌01年にはプロ野球新記録となる6日間連続セーブをマークし、02年にはパ・リーグ新記録となる17試合連続セーブを成し遂げる。さらに03年には日本人最速となる登板222試合目での通算100セーブに到達した。結果的に入団からの5年間で計117セーブを挙げることとなった。

 さらに04年からボビー・バレンタインが監督に就任すると、投球回数が増加するなど、さらにその役割が重大なものとなった。なかでも05年には通算312試合目の登板(史上最速)でプロ野球史上4人目となる通算150セーブを達成している。またこの年は2勝2敗29セーブの成績で自身初となる最多セーブ投手を獲得し、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。

 06年には史上3人目となる通算200セーブ(史上最速)と日本プロ野球史上初の6年連続20セーブを成し遂げた。翌07年にも自己記録を更新する7年連続20セーブをマークしている。この4年間で110セーブを挙げ、先の5年間と合わせると227セーブにまで到達した。

 そしてこのオフにFA権の行使を宣言してメジャーへと移籍している。メジャーでは2年間プレーしたが、1年目の08年に6セーブを挙げたのみに留まった。そのため10年に日本球界へ復帰し、読売ジャイアンツとオリックス・バファローズでそれぞれ1年間プレーしている。そして読売時代の4月3日の広島東洋カープ戦で日本球界復帰後初となるセーブを挙げているが、このセーブが現役最後のセーブとなったのであった。

 最終的にはNPBの11年間で228セーブ、MLBでの2年間で6セーブをマークし、計234セーブを記録したが、名球会入りするための条件である250セーブにはあと16足らず、無念の引退となっている。ちなみにこの小林に続く6位にランクインしたのは往年の名ストッパー・江夏豊(元・広島東洋など)である。その数実に193セーブで200セーブまであとわずか7であった。実は江夏は勝利数でも通算206勝をマークしているので、もしセーブ数も200にまで到達していたら、日本プロ野球史上初となる200勝・200セーブ投手の誕生となっていた。実に惜しかったワケである。

 また、今回は日本人投手のみに絞ったが、名球会入りの資格を保持している外国人投手で日米両方で投げた選手として、デニス・サファテ(福岡ソフトバンクホークス)を忘れてはならない。メジャーではセーブ0に終わったものの、日本のみで昨シーズンまでに通算234セーブを挙げ、名球会入りの条件となる250セーブまであと16と迫っている。

 ただ、現在は股関節の故障のため、アメリカに一時帰国しており、18年4月以来登板がない状態だ。

 広島時代の11年には35セーブを記録し、福岡ソフトバンク1年目の14年には37セーブをマークと、日本プロ野球史上初となる両リーグでの30セーブ以上を達成したほか、17年には54セーブを挙げ、日本プロ野球におけるシーズン最多セーブの新記録を打ち立てている。迫る250セーブに向けて果たして復活なるのだろうか。

 さて、話を藤川球児に戻そう。名球会入りまであと5と迫ったセーブ数をどこまで伸ばすことが出来るのか。プロ野球ファンとしてはぜひとも達成してほしいのだが、本人としては1軍の戦力として必要な存在とならない限り、登板することはないだろうと思われる。チームの優勝のために、少しでも戦力となるために1軍復帰を願っている。

上杉純也

週刊新潮WEB取材班編集

2020年9月24日掲載

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