佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、竹下登、海部俊樹、細川護熙と「ファーストレディ」

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「クリーン三木」の伴侶は森コンツェルン総裁の次女

 田中家をよく知る関係者によると、

「跡取りの真紀子さんは、自宅に親戚が集まった際には、はなさんよりも上座に座らされていました。オヤジ(角栄)がいるときでも次席で、はなさんよりも上座でした」

「はなさんは家の中では控えめで、それは真紀子さんに対してもそう。再婚で連れ子がいたことに負い目を感じていたのでしょう。いつの間にか、母親の方が逆に娘にすがるような関係になっていたようにも映りました」

「はなさんが好きなワイドショーを見ていた時、角さん(角栄)と口ゲンカをしてイライラしていた真紀子さんがブチっとテレビを消してしまったことがありました。でも、はなさんは何も言えずに黙っているしかありませんでしたね」

 田中派の分裂騒動を受け、角栄は1985年2月に脳梗塞で倒れる。その後のリハビリ方針についても主導権を握ったのは、はな夫人でも真紀子氏の夫・直紀氏でもなく、真紀子氏だった。

 角栄氏は1993年12月に死去。課税対象額は約200億円にのぼった。はな夫人は角栄をおいかけるようにして95年9月に死去している。

 1974年12月、「ポスト角栄」を巡る総裁選には、福田赳夫、三木武夫、大平正芳、そして中曽根康弘の各氏が名乗りをあげる。

 党内傍流で選挙戦となれば劣勢必至だった三木氏が総裁の座を射止めたのは、自民党副総裁・椎名悦三郎氏の裁定によってだった。

 田中金権批判へのアレルギーに乗じ、札束が乱れ飛ぶ総裁公選は改革が必要だと主張した「クリーン三木」が時代の流れに乗ったということになる。

 三木氏の座右の銘は「信なくば立たず」。安倍首相は国会議員の説明責任に触れる際、この言葉をしばしば用いるし、三木武夫氏の夫人、睦子氏(享年95)も自著にその言葉を使っている。

 睦子夫人は昭和電工の創業者で、戦前の財閥である森コンツェルンの総帥・矗昶(のぶてる)の次女。その矗昶氏も、夫人が幼い頃は代議士だった。

海部夫人もトレードマーク、水玉のワンピースで

 幼いころから、「政治家の奥さんなんかにならないわよ。政治家にはなってもいいけどね」と答えたという逸話があるほど、型破りなタイプだった。

 1937年、30歳で最年少の代議士として当選したばかりの三木氏と知り合い、40年に結婚した。

 三木氏が科学技術庁長官として入閣することが決まった時、睦子夫人は子供らとヨーロッパ旅行中だった。フランスでは公使が航空券を持って待ち構えている。

 しかし、夫人は「今から日本に帰っても、お祝いの鯛は腐っていますでしょうし」と言って、旅を続けたという。

 三木元首相は1988年に亡くなるが、夫人はアジアの女性の地位向上や難民支援活動を展開。2012年7月、95歳の誕生日に死去している。

 ちなみに、先に登場した佐藤元首相と三木氏はソリが合わなかったものの、縁戚関係はあった。

 先に触れたように睦子夫人は森矗昶(のぶてる)の次女だが、長女は安西正夫・元昭和電工社長に嫁いでいる。そして、正夫氏の兄、安西博元東京ガス会長の長女・和子は佐藤の次男の信二運輸相の夫人にあたるのだ。

 その三木内閣で官房副長官を務め、元首相の「秘蔵っ子」と言われたのが、海部俊樹元首相(89)。1989年、昭和が平成に変わった年に総裁に選ばれた。

 投票日当日、東京・千代田区の高層マンションで、テレビを通じて「海部総裁誕生」を見届けた幸世夫人は、目頭を押さえて喜びをかみしめた。海部氏のトレードマーク、水玉模様のワンピース姿だった。

 幸世夫人と海部氏とはそれぞれが国会議員の事務所で働いていた関係で、議員会館で知り合った。夫人の父は薬局経営で、祖父は長く美濃町議を務めた。

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