外交の安倍でも北方領土返還交渉は失敗 “インチキ演出”に旧島民利用の罪

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 8月28日、突然の辞任会見で安倍晋三総理が「ロシアとの平和条約、また憲法改正、志半ばで職を去ることは断腸の思い」としか触れなかった北方領土問題。

「外交の安倍」を掲げ、北朝鮮の日本人拉致問題と北方領土問題について「在任中の解決」を豪語しながら、ともに「進展ゼロ」で表舞台から去る。否、北方領土に関してはゼロどころか大きく後退させたのだ。

 プーチン大統領について「ウラジミール」「シンゾー」とファーストネームで呼び合う仲と喧伝、歴代首相の誰よりも多くロシア首脳と直談判したことを自慢する首相が晴れ舞台としたのが、大統領が来日した2016年12月15日の日ロ首脳会談。山口県の温泉などの「おもてなし」は大統領の「故意の遅刻」でチャラになったが、首相は終始かっこよくふるまった。この秋、官邸サイドは二島、つまり歯舞諸島と色丹島は今にも返ってくるかのように煽り、メディアはそれを垂れ流した。

 筆者は首脳会談の12月15日夜、根室市のニホロ会館で旧島民の高齢者たちと中継を見守った。知識不足か、NHKの同時通訳がプーチンの歴史背景の説明を翻訳できず止まってしまうハプニングも起きる中、固唾を呑んで見守った共同声明には「返還」どころか「解決」の文字もなかった。4島の「主権」をはぐらかし、自由往来、墓参の簡素化、経済交流ばかりを強調する内容だった。歯舞諸島の多楽島出身で千島歯舞諸島居住者連盟の河田弘登志副理事長(86)は「返還や主権の話もせず、経済交流ばかりなのはいかがなものか」と不信感を露わにしていた。

 この時、NHKスペシャルは、旧島民たちの手紙をプーチン大統領が安倍首相の前で真剣に読む光景を美談のように報じたが、手紙には「いつでも墓参りしたい」「島で朝を迎えたい」などの文言はあっても「島を返してほしい」とは誰も書かず、あたかも自由渡航が一番望むことのような内容だった。そんなはずがあろうか。

 成果ゼロと見た官邸サイドとNHKが東京在住の旧島民女性を利用して演出したのであろうことは容易に想像できた(NHKには安倍首相お気に入りとされる「ちょうちん持ち」、政治部の岩田明子記者がいる)。インチキと感じたのは筆者だけではない。

 当時、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターの岩下明裕教授も「NHKが手紙の作成からかかわらなければ非公開の手紙を配る場面の撮影などできない。外務省がこんな手紙を用意するはずがなく、仕組んだのは官邸。そこにNHKが絡んで本来の争点をそらして成果を演出した」などと鋭く指摘していた。

 空虚な期待値ばかり高めた官邸サイドは18年12月の東京での返還要求アピール行進や、昨年2月7日の「北方領土の日」の根室市での決起大会で、旧島民らは「島を返せ」のシュプレヒコールも自粛させられ、そうした文言の鉢巻すら外させられた。官邸サイドがプーチン大統領を刺激しないように根室市長などを通じて返還運動関係者に手を回していたのだ。

 安倍政権はそうしたことを望郷の高齢者に強いてまでプーチン大統領に媚びまくった。2019年4月の日ロ首脳会談、そして6月の大阪サミットでの首脳会談で「平和条約締結」を土産に参院選で勝利するといった筋書きだったからだ。一方で甘い見通しが否定されるような多くのロシア側情報には頬かむりした。

 北方領土問題は対外的には外務省、対内的には総務省の懸案事項だった。ところが、主導権を官邸サイドと経産省が奪った。ロシアに主権を棚上げにされたため、外務省が交渉を進めないうちに経産省が入り込んだ。「今井尚也首相補佐官が外務省のロシア・スクールを外した」とも噂されていた。18年12月にラブロフ外相が「日本が第二次大戦の結果を受けとめることが第一」と発言したことへの感想を記者に問われた河野太郎外相は「次の質問どうぞ」とその質問を無視し続けて問題になったがこの一件、首相のパフォーマンスのために、できもしないことをさせられていた外務省の不快感が露呈したのだ。ラブロフについてメディアは「対日強硬派」のレッテルを貼って済ませていた。

 今年7月、ロシアは憲法に「領土の割譲を禁じる」項目を盛り込んだ。さらに日本は「北方領土の言葉を削れ」とまで迫られる有様。もはや旧ソ連はブレジネフ第一書記の「解決済み」に近い所まで後退した。今年に入り安倍首相も北方領土問題に言及しなくてはならない局面はほとんどなくなった。「コロナのおかげ」だろう。

 ちなみに経済交流もロシア側に金だけ取られて終わりそうだ。旧ソ連崩壊で日露の雪解けが進んだ90年代、サハリンなどでサケの養殖場など、資本金折半の日ロ合弁事業が盛んに進められた。しかし結局、「我が領土に建つ施設だ」とすべて取られ日本企業は手を引いてしまっている。

 プーチン大統領は交渉過程で1956年の「日ソ共同宣言」を根拠にすることを明言し日本側はこれに飛びついた。鳩山一郎首相が腐心したこの宣言は平和条約を締結した後に歯舞、色丹を引き渡す(返還する、ではない)内容(ソ連が実際、色丹と歯舞の明け渡しの準備をしていたことを筆者は、サハリン残留邦人でソ連の漁業公団職員となった佐藤宏氏から直接聞いている)。しかしソ連と日本を引き離したい米国の横やりで立ち消えた。

 前述の岩下教授は「日本側は日ソ共同宣言に立ち返れば歯舞、色丹は無条件で返ってくると思い込んだ」と見通しの甘さを指摘していたがその通りになった。「政府は二島プラスアルファを狙ったつもりだが、4島は完全に諦めたという会談でしかなかった。二島プラスアルファどころか二島マイナスアルファとも言える」とする。

 その後、「領土問題を棚上げにしたまま平和条約を結ぼう」とプーチン大統領に仰天提言された安倍首相は何も言えず、にやにやしていただけだった。

 2001年頃、鈴木宗男(現新党大地代表)が「二島先行返還論」を提言した時、「天敵」たる田中真紀子外相は国賊の如くに批判した。しかし「4島一括返還要求では埒が明かない」と、外務省も「一括」の言葉をしれっと抜くなど対応を変化させてきた。最近の鈴木氏は安倍首相のトップ会談のたびにテレビ出演し、「素晴らしい成果」と礼賛してきた。彼が票にならない北方領土問題で他の国会議員より詳しいことは事実だが、太鼓持ちとなったのは「娘の貴子衆院議員を自民党に預けているから」と聞く。

 詳細は省くが北方領土問題は、古くは田中角栄vs.ブレジネフ第一書記、海部俊樹vs.ゴルバチョフ大統領、橋本龍太郎vs.エリツィン大統領、森喜朗vs.プーチン大統領などトップ会談などのたびに官邸とメディアは「返ってくるのでは」と期待を抱かせた。チャンスがあったとすれば脇の甘いエリツィンの時だけだろう。プーチンは柔道好きで親日家に見せてもKGB(ソ連国家保安委員会)出身の強面だ。安倍首相は「お友達」になれば島が返ってくるとでも思ったのか。

 多くの国民が「ソ連・ロシアが返すはずないだろう」と諦観する中、実質の進展がなくとも批判はされないことを見越した歴代総理は、北方領土問題について成果ゼロの交渉をいかにも成果があったように報じさせてきた。

 安倍首相辞任で紙面を眺めると北方領土問題について北岡伸一国際協力機構理事長は「期待値を上げすぎ長期政権の利点を生かしきれなかった」(8月29日付読売新聞)と擁護していた。しかし安倍総理ほどパフォーマンスばかりで空虚な「領土返還交渉」(その実は領土利用交渉)をした政治家を筆者は知らない。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年9月9日掲載

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