「周防正行」監督が明かす創作論 「いい監督ほど妥協する」

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センスではなく「理屈」を追及する

周防 その前に作った「ファンシイダンス」では、僕がお坊さんの世界に感じた面白さをストレートに描いた。面白がってくれる人もいたけれど、ヒットはしませんでした。あれは、自分のセンスだけで突っ走って撮った映画だったんです。

 そういう経験を経て、「シコふんじゃった。」で初めて、これを一般の人に娯楽作品として届けるなら、学生相撲をどの視点からどのように描けばよいのかを考え始めたんです。僕が感じている面白さは、一部の強豪校ではなく、弱小校にある。その面白さを、自分以外のたくさんの人にも感じてもらうには、一般化しないといけないことがいっぱいあるんじゃないか、と。

二宮 一般化というのは、咀嚼して普遍化するということでしょうか。

周防 翻訳に近い。

二宮 とすると、言葉を置き換えるという感じですかね。ぼくは、面白いものってどこまでいっても主観で、そもそも言語化できないんじゃないかとも思ってしまうんですけど。

周防 たしかに。面白いという感情は、理屈抜きで感じるものでしょう。でも、その面白さを人に伝えようとするなら、自分が何をどう感じているから面白いのかを追求して再構築しなきゃいけない。

二宮 その面白さの生じる文脈みたいなものを客観化する作業が大事になってくるんですね。

周防 そう、お客さん次第でしかわからない面白さにしないために、理屈を追求する。

二宮 めちゃくちゃ勉強になります!

周防 それは撮り終わった後の編集作業にも言えるんです。「カツベン!」には、フィルムの端切れを接ぎ合わせて作品を成立させるシーンを入れましたが、あれはさすがに極端だとしても、たとえば、演者が涙するシーンがあったとする。このカットの後にどのカットをつなげば、喜びの涙だとわかってもらえるのか。あるいはこのカットの前にどのカットをつなげば哀しい涙になるのか。同じ画がどんな文脈のなかで、どういう順番で来るかで、意味が全く違っちゃうわけですよ。

「素人」としての驚きを忘れない

二宮 他にも伺いたいことがあるんです。監督は取材に長い時間をかけるそうですね。ぼくも作品を書くにあたって徹底的に調べたい気持ちがあるんですけど、やり始めると本当にきりがないし、あまりに資料にこだわると作品にできない。描きたい本題からずれてしまうじゃないですか。その線引きってどうされていますか。

周防 僕はなにかの研究者ではない、作るのは一本の娯楽映画だというのが基本線ですね。取材していくと、だんだん物語ができてくるんですよ。それで、僕がつくりたいのはこういう物語なんだなってわかったらおしまい。

二宮 おお。わかりやすいです。

周防 取材していくと、いろんなことがわかるじゃないですか。取材を踏まえて、こういうストーリーかなって思い描きながら次の人を取材してみたら、いや待てよ、こういう別の流れもあるんだとわかったりして。そういうことを積み重ねた末に、世界がひとつの物語に収斂する。もっと面白いストーリーがあるかもしれないけれど、自分が素直に納得できるのはこの物語だっていうくらいになったら、シナリオを書きたくなるんですよ。まあ、ストーリーは書きながらも変わっていくし、書いていくとさらに取材をしなきゃいけないことを発見するんですが。

二宮 わかります!

周防 これは自分に言い聞かせているんだけど、僕らは素人として知らない世界に入っていくわけだから、世界の入口で感じていた自分の気持ち、その世界に興味を持ったきっかけだけは忘れないようにしようと。だから取材を進めていくときに気を付けているのは、最初の驚きを忘れないことですね。たとえば、刑事裁判を扱った「それでもボクはやってない」(2007年)では、取材を始めてすぐに、「えっ、証拠って全部見られるわけじゃないんだ」って強烈な驚きがあったわけですよ。それが、司法の世界を調べていくとどんどん当たり前になっちゃう。

二宮 専門家はその世界の常識の中で生きていますからね。

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