菅野智之、甲子園と無縁だった東海大相模時代 伝説の「振り逃げ3ラン」を記録

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 読売ジャイアンツのエース・菅野智之(30)が8月25日の対東京ヤクルトスワローズ戦で7回を被安打5の2失点と好投し、開幕から無傷の9連勝を飾った。これは読売の開幕投手としては1990年に斎藤雅樹がマークした開幕8連勝を抜く快挙でもあった。

 そして興味深いのが、この菅野と斎藤はともに高校時代、甲子園の土を踏んだことがないのである。斎藤は埼玉県の公立高校(=市立川口)だから、分からなくもない。一方、菅野の出身高校はあの神奈川県が全国に誇る強豪・東海大相模である。甲子園出場経験がないというのは、実に意外だ。

 菅野が東海大相模に入学したのは05年である。まず入学直後の夏の予選で、菅野が1年生でベンチ入りを果たしたかは不明である。ただ、このときは準決勝で名門・慶応に1-2でサヨナラ負けを喫しており、1年夏は県予選ベスト4敗退という結果となっている。

 注目したいのは、この夏の県予選後に結成された新チームである。秋の県大会は決勝まで勝ち進み、最後は県内最大のライバル校・横浜の前に5-8で苦杯を嘗めたが、見事、関東大会への切符は手にしている。

 その関東大会でもベスト4まで進出し、翌06年春の選抜出場を決めているのだ。

 しかし、彼が新2年生になったこのときの春の選抜の甲子園出場メンバーに“菅野智之”という名はなかった。要はベンチ入りメンバーから漏れてしまったのである。このチームの主戦は高山亮太(現在は社会人野球の日本通運のコーチ)という左腕で、2番手に藤田大(元・熊本ゴールデンラークス)が控えていた。この2人の前に、どうやら菅野がつけ入る隙はなかったようなのだ。

 そして、その悔しさをバネに同年春の県大会から待望のベンチ入りを果たすまでに成長した。続く夏の県予選でもベンチ入りメンバーに選ばれ、チームも決勝戦へと進出する。

 だが、そこで待っていたのは宿敵・横浜であった。試合は序盤から東海大相模が失点を重ねる形となり、完全に劣勢となっていた。

 この苦しい展開で菅野に出番が回ってきたのは6回表であった。1-10と大量リードされるなか、3番手投手として登板したのだが、流れを変えることは出来なかった。わずか1イニングで4安打を浴び、4失点と散々な結果に終わったのである。

 チームはこの後、反撃するも、結局は7-15で敗退することに。菅野は決勝戦という晴れ舞台で登板したものの、苦い経験となった。さらに菅野たちが最上級生となり結成された新チームでようやく主力投手になったが、その2年秋も県大会準決勝で敗退してしまう。菅野は完投するも桐光学園に6-7で惜敗し、春の選抜に繋がる関東大会進出はならなかった。序盤3回までに喫した6失点が致命的であった。

 そしてもう負けられない3年最後の夏を迎える。県大会でチームは順調に勝ち上がり、決勝戦進出を果たすが、最後に立ちはだかったのは前年秋に苦杯を嘗めた桐光学園であった。試合は打撃戦となり、8-8で迎えた9回表についに力尽きた菅野が2点を献上してしまう。9回完投した菅野であったが、計13安打を浴びるなど、最後の勝負どころで本調子とはほど遠い投球内容となってしまった。 

 こうして惜しくも、最後の夏も甲子園には手が届かなかったのである。

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