菅野智之、甲子園と無縁だった東海大相模時代 伝説の「振り逃げ3ラン」を記録

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記憶に残る試合

 ここで注目したいのは、菅野がどの段階でプロに注目される投手になったのかだ。負けた試合をみると失点があまりにも多すぎるからである。

 当時の高校野球関係の雑誌をいくつかあたってみると、どうやら3年春から夏の間のようだ。一冬越えて最速が約10キロアップし、148キロを計測するようになった。春の県大会は準々決勝で横浜に4-6で敗れたものの、16奪三振をマークしている(被安打11、与四死球6での完投負け)。

 また、成田(千葉)との練習試合ではなんと19三振を奪っている。こうしてドラフト上位候補として一躍、注目されることとなったのだ。

 ちなみに決勝戦で敗退したものの、3年夏の県予選では40回2/3を投げて、45奪三振の力投ぶりだった。決勝戦は疲労により打ち込まれ、9回で被安打13の10失点を献上したが、準決勝までの5試合は31回2/3で5失点と安定した投球をみせていたのだ。

 しかも準決勝では2年夏・3年春と負けている横浜相手に9回で被安打10ながら4失点に抑えて完投勝利を収めている。

 加えてこの一戦では4回表の東海大相模の攻撃で、菅野は非常に珍しい形の「振り逃げ3ラン」を記録している。試合は3点を先制してなおも2死一、三塁と追加点のチャンスでバッターだった菅野は2ストライク後にワンバウンドのボールを空振りし、スリーストライクが宣告された。

 ところがこれで3アウトと勘違いした横浜のキッチャーが菅野へのタッチを怠り、同時に守っていた他の選手たちもアウトと思い込んで全員がベンチに引き揚げてしまった。確かに記録上は三振なのだが、このときの投球はワンバウンドしており、実は打者の振り逃げが成立するケースだったのだ。

 それに気づいた東海大相模の門馬敬治監督はバッターだった菅野と二人のランナーに「走れ」と指示。こうして3人は無人のダイヤモンドを回ってホームインしたため、東海大相模にさらに3得点が認められ、6-0となったのだった。直後に横浜の渡辺元智監督は猛抗議したものの、当然判定が覆ることはなかった。

 横浜はその後、反撃し2点差まで詰め寄ったものの、この3点が大きく響き、結局、6-4で東海大相模に凱歌が上がることとなったのであった。

 ちなみに菅野はこの横浜との試合直後に振り逃げの瞬間のことを聞かれ、こう答えている。「何が起きたのか分からなかったけど、ベンチからの指示なのでとにかく走りました」。

 プロで記録を作る男は、高校野球でも記憶に残る試合をしていたというワケだ。

上杉純也

週刊新潮WEB取材班編集

2020年9月3日掲載

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