渡哲也さんが貫いた「裕次郎」の流儀 「石原良純」「みのもんた」ら語る

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ひっそりと営まれた家族葬

 今月10日、鉄の結束で知られる「石原軍団」を率いてきた渡哲也さんが肺炎のため亡くなった(享年78)。石原良純、みのもんた、黒沢年雄ら関わりの深かった芸能人に生前の姿を振り返ってもらった。

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 都内が最高気温34度の酷暑に見舞われた8月14日――。照りつける真夏の陽射しの下、大田区久が原にある瀟洒な一軒家から姿を現した“夫人”を乗せて、ミニバンが静かに走り出した。向かった先は目黒区内の古刹である。

 正午過ぎ、ファンや報道陣の目を避けるようにひっそりと営まれたのは、渡哲也の“家族葬”だった。

「参列したのは俊子夫人ら親族と石原プロモーションの幹部数人のみ。彼の背中を見続け、行動を共にしてきた弟分の舘ひろしすら参列は叶わなかった」(芸能デスク)

 実際、俊子夫人は自宅を出入りする際にグレーのカーディガンを羽織り、喪服と悟られないよう注意を怠らなかった。その後、寺を出発した霊柩車は渋谷区内の斎場に到着し、渡は荼毘に付されたのである。

 この日の晩になってようやく、石原プロは、渡が10日に入院先の病院で逝去していたことを公表した。死因は肺炎だった。

“昭和最後のスター”の秘せられた死――。

 実は、本誌(「週刊新潮」)は“渡が虎の門病院に緊急搬送され、その後に亡くなった”との情報を事前に入手していた。

 病院関係者によると、

「渡さんは持病の肺気腫や喘息に苦しめられ、酸素吸入器をつけて自宅療養を続けていました。容体が急変したのは9日早朝。すぐに緊急搬送され、緊急外来で治療を受けた後、循環器内科に引き継がれている。しかし、残念ながら翌10日に、奥さんに看取られながら息を引き取ったのです」

 当初、この情報は一切伏せられていたが、事は大衆に愛された大スターの安否である。本誌が数日間にわたって渡家の動静を取材していたところ、冒頭の場面を目撃することになった。

 芸能デスクが続ける。

「ここ数年、渡さんの健康状態を危ぶむ声を耳にしたのは一度や二度ではない。実際に死線を彷徨(さまよ)ったこともあり、5年前には急性心筋梗塞の大手術も受けた。ただ、そのたびに不屈の精神で乗り越えてきた」

 その原動力となったのは言うまでもなく、“石原”の金看板を支え続けるという強固な意志の力だろう。

 渡は昭和を代表する国民的スター・石原裕次郎に憧れ、慕い続けた。1987年に裕次郎が亡くなると、自ら石原プロの社長を継いで事務所を支えてきた。

 だが、あれほどの生命力を見せてきた渡は“悲願”が達せられてから、わずか1カ月足らずで帰らぬ人となってしまう。おかしな表現と思われるかもしれないが、悲願とは、本誌(「週刊新潮」7月16日発売号)がいち早く報じた“石原プロの解散”に他ならない。

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