渡哲也さんが貫いた「裕次郎」の流儀 「石原良純」「みのもんた」ら語る

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「良純は明るくていい」

 1941年に島根県で生まれた渡は、青山学院大学に進学し、在学中に訪れた日活撮影所でスカウトされる。

 その後の人生を決定づける裕次郎との出会いは、日活の食堂でのことだった。渡が憧れの銀幕スターに挨拶すると、裕次郎は食事中だったにもかかわらず、席を立ちあがり、「君が新人の渡君ですか。石原裕次郎です。頑張ってくださいね」と激励した。これに感激した渡は、それから裕次郎の“流儀”を受け継いでいく。

 渡と親交の深いキャスターのみのもんたによれば、

「初対面は銀座のクラブで、僕がまだ40歳前後の頃でした。こっちはペーペーだったけど、あちらは大スター。恐るおそる挨拶に伺うと、それに気づいた渡さんはさっと席から立って深々とお辞儀するんです。いや、驚きましたよ。この業界には咥えタバコや、ポケットに手を突っ込んだまま挨拶をする連中も多いのでよけいに際立っていた。渡さんの振る舞いを見ているから、石原プロの俳優は誰もが礼儀正しい。僕にとっても常に模範を示してくれる“兄貴”のような存在でした」

 渡とほぼ同時期にデビューした俳優の黒沢年雄はこう振り返る。

「当時、雑誌の企画で将来の映画界を担う新人俳優が特集されてね。東宝から僕が、日活からは彼が選ばれて対談したことを覚えています。彼は稀に見るスターでしたよ。演技を磨いて名優になる人はいるけれど、スターというのは別格の存在。演技力など超越して、本人の存在感が観客を惹きつけるんです。裕次郎さんはもちろん、渡さんもそういったタイプの俳優でした」

 裕次郎の甥で、「西部警察」では渡を“団長”と仰いだ石原良純は、本誌に以下のコメントを寄せた。

〈“良純は明るくて良い”と渡さんにいつも褒められた。でも、学生から撮影現場にいきなり飛び込んだ僕に笑顔の余裕などあったはずもない。渡さんは厳しい。でも、己に厳しい渡さんの周りの人間には、厳しさが当然と思えた。時を経て、その厳しさの何十倍もの優しさに気がついた。現場では、いつも明るく振る舞えという教えも理解できるようになった。ありがとう、ございました〉

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