ちあきなおみが消えて28年 関係者は「彼女は繊細で、芸能界とは相容れない人」

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歌うことをやめたのは1992年9月11日。夫の郷鍈治さんが他界した日だーー

 昭和を代表する女性歌手の1人、ちあきなおみ(72)が引退宣言もしないままマイクを握らなくなってから28年が過ぎた。人前にも姿を表さない。なぜ、ちあきは消えたのだろう。あの歌声は二度と聞けないのだろうか。

 ちあきなおみが歌うことをやめたのは1992年9月11日。夫で個人事務所社長の郷鍈治さん(55)が肺がんで他界した日だ。

 ちあきが郷さんと個人事務所を立ち上げたのは75年だった。

「事務所内での2人はとても仲睦まじく、ちあきさんはとても幸せそうでした」(ちあきに作品を提供したミュージシャン)

 ただし、独立は簡単ではなく、「のちに芸能界から姿を消す引き金になった」と、このミュージシャンは見ている。

 ちあきが69年のデビュー前から所属していた事務所は独立に猛反対した。拒絶と言ってもよかった。それを押し切る形でちあきが新事務所を設立すると、ちあきバッシングの記事が芸能誌に次々と載るようになる。まだ結婚前だった郷さんとの関係などがネガティブに書き立てられた。

 さらに、レコード会社元幹部が「ちあきさんが、なによりも傷ついたはず」と推し量るのが、実父に関する記事。ちあきの母親と実父はちあきが幼いころに離婚し、実父はほかの女性と暮らしていたので、ちあきとは一切関係がなかった。ところが、この実父の半生や評判を芸能誌はスキャンダラスに書き連ねた。一体、誰が情報を流したのか……。

 それにとどまらない。当時の音楽業界に強い影響力を発揮していた音楽評論家が、独立した途端、芸能誌の連載コラムで「ちあきはわがまま」などと激しい言葉で責め立てた。ちあきは72年に「喝采」でレコード大賞に輝いていたが、それらの実績まですべて否定するかのような救いのない論調だった。

「ちあきさんは芸能界に不信感を抱いたはずです」(元レコード会社幹部)

 78年には当時の所属レコード会社・コロムビアとも決別する。

 ちあきは個人事務所設立後、中島みゆき(68)に作詞作曲を依頼した「ルージュ」(77)や同じく友川かずき(70)に頼んだ「夜へ急ぐ人」(同)など、歌いたい作品を歌っていた。これがコロムビア側の方針と合わなかった。さらに同社に断りなく郷さんと入籍したとして、契約解除を言い渡される。

 その後、ちあきは約1年間、歌手活動を休業。本人はのちに理由を「派手な世界が急になんだか恥ずかしくなってしまったんですね」と、語っているが、額面通りには受け取りにくい。

 ちあきの最後の所属レコード会社であるテイチク元社員は「よその会社が契約解除した人と、すぐに仕事をするのは難しい」と解説する。ちあきは自分らしく生きようとしただけなのだが、それが受け入れられなかった。

 この時期、ちあきは孤立無援のような状態になってしまう。辛かっただろう。芸能界への不信がより募ったに違いない。

 ただし、郷さんだけはいつもそばにいて支えた。俳優の故・宍戸錠さんの弟で、やはり俳優だった郷さんは、悪役が多かったものの、素顔は優しい人として知られていた。ちあきとの結婚後は俳優を辞め、彼女のサポートに専念していた。

「あの2人はまさしく一心同体でした。いつも一緒に居た」(前出・ちあきに作品を提供したミュージシャン)

 ちあきは80年にCBS・ソニー、81年にはビクターとそれぞれ契約したものの、両社に所属した約8年間で出したシングルは僅か1枚にすぎない。

 当時のCBS・ソニーの制作陣の1人は「独立とコロムビアの契約解除が少なからず影響しました」と振り返る。シコリはなかなか消えなかった。

 もっとも、88年にテイチクに移籍すると、また精力的に歌い始めた。どうして同社入りしたかというと、「喝采」の担当ディレクターで、ちあきが最も信頼する音楽人の東元晃氏が、同社社長に就いたから。東元氏がちあきを庇護したことで歌いやすい環境が得られた。

 さっそく同年には「紅とんぼ」をヒットさせ、実に11年ぶりにNHK「紅白歌合戦」に出場。91年には故・水原弘さんの名曲をカバーした「黄昏のビギン」もヒットし、黄金期再到来を思わせた。

 ところが、このころから郷さんは肺がんを患い、翌92年に死去する。生前の故・宍戸錠さんが明かしたところによると、国立がん研究センター中央病院(東京・築地)に入院していた郷さんが亡くなる間際、看護師たちはちあきの後追い自殺を真剣に心配していたという。悲壮感が漂っていた。

 郷さんの告別式でも、ちあきは棺にしがみつき、身をよじらせながら「私も一緒に焼いて」と哀願したという。以来、一切の芸能活動から離れ、人前からも消えた。44歳のときだった。

 郷さんが逝去した際、ちあきはこんなコメントを出した。

「主人の死を冷静に受け止めるにはまだ当分時間が必要かと思います。皆様には申し訳ございませんが、静かな時間を過ごさせて下さいますよう、よろしくお願いします」

 このコメントを目にした前出のレコード会社元幹部は「1、2年休んだら復帰する」と思ったという。多くのファンもそう考えていたのではないか。なにしろ売れっ子だったのだから。

 だが、前出・ちあきに作品を提供したミュージシャンは「もう戻って来ない予感がした」という。

「芸能界で何度も傷つきながらも歌い続けられたのは、郷さんの支えがあったから。その人が亡くなったら、歌う気力がなくなりますよ。そもそも、ちあきさんは繊細な人で、芸能界というシステムとは相容れない人だったと思う」(同)

 どれくらい繊細だったかというと、レコーディングの際には自分の姿を暗幕で覆い、歌っている姿を誰にも見せなかったほど。胸に棘が何本も刺さりながらも歌えていたのは、ひとえに郷さんの存在があったからに違いない。

 ちあきが60代半ばを過ぎたころから、近しい人ほど「もうカムバックはない」と断言していた。ちあきが完璧主義だからである。

「歌声を元通りに戻せない限り、復帰はあり得ない。元通りにするためのボイストレーニングには相当時間がかかる。また、時間をかけても元に戻るとは限らない。だから復帰はない」(前出・テイチク元社員)

 無論、それでも生活に困ることはない。ベスト盤、企画盤などが今も発売されているので、歌唱印税が入る。2019年4月に発売された企画盤「微吟」もヒットした。

 資産もある。郷さんの生前に購入した賃貸マンションを神奈川県湘南地域に所有しており、家賃収入が入る。

 郷さんの墓は東京都港区内にあるが、ちあきは今も月命日の墓参を欠かさないという。

高堀冬彦(ライター、エディター)
1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長。2019年4月退社。独立。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年8月23日掲載

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