早慶戦で球史に残る大乱闘、逮捕者も出た“水原リンゴ事件”(昭和8年)とは何だったのか?

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にっぽん野球事始――清水一利(27)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第27回目だ。

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 東京六大学リーグが始まってまもなく1世紀。長いその歴史は誰もが認める永遠のライバル早稲田と慶應の戦いといってもいい。その両校で最初にリーグの歴史に残る金字塔、全勝優勝(10戦10勝)を達成したのが1928(昭和3)年秋の慶應だ。(同年春、慶應よりも早く明治が8戦全勝で優勝したが、このシーズンは慶応がアメリカ遠征で参加していなかったため、公式記録では全勝優勝として扱われていない)。特に早稲田戦は第1戦2対0、第2戦4対0と2試合連続の完封勝ちという圧勝。ライバルを完膚なきまでに叩きのめした上での偉業達成だった。

 今もなお、慶應野球部史上最強チームともいわれるこの時のメンバーは、水原茂(高松商)、山下実(第一神港商)、宮武三郎(高松商)などいずれも甲子園を沸かせ、後には誕生まもないプロ野球で活躍した選手たち。中でも全勝優勝の立役者となったのが宮武だった。宮武は早稲田との第2戦で7回に先制の2点タイムリーを放つと、先発の水原をリリーフして早稲田の反撃を無得点に抑えるなど投打にわたって大活躍。慶應ファンの喝采を浴びた。

 慶應はこの時の全勝優勝を記念しユニフォームのストッキングに白いラインを入れ、以後、全勝優勝のたびにラインを1本ずつ追加することにした。ところが、全勝優勝はそう簡単にできるものではない。長い間、そのラインは1本のまま。2本目の白いラインが入ったのは1引分けをはさむ全勝優勝を達成した1985(昭和60)年秋、実に57年ぶりとなる悲願達成だった。

 ちなみに第1号の慶應以来、六大学史上2番目となる全勝優勝を達成したのは30年後の1958(昭和33)年の立教だった。この時の立教は前年の1957(昭和32)年春から翌年秋にかけて4連覇の真っ最中にあった。まさに黄金時代を築いていた頃である。

 ところで、立教以降の全勝優勝チームは1982(昭和57)年春・法政、1985(昭和60)年春・法政、同年秋・慶應、1996(平成8)年秋・明治と続き、優勝経験のない東大を除けば早稲田だけが全勝優勝をしていなかった。

 その早稲田が、ようやく念願の全勝優勝を成し遂げたのは21世紀になってからの2003(平成15)年秋。前年エース和田毅を中心に春秋を連覇、他校を寄せつけない圧倒的な強さを誇った早稲田は翌年も越智大祐や鳥谷敬、青木宣親、田中浩康、武内晋一などその後プロで活躍する強力なメンバーを擁して他校を圧倒。リーグ結成から78年目にしてようやく夢を実現した。

 長い歴史を重ねてきた東京六大学野球では、その間さまざまな出来事が起きている。中でライバルであるがゆえに早稲田、慶應の両校が当事者となったものも少なくない。1933(昭和8)年10月22日に発生した「水原リンゴ事件」もその一つだ。

 事件に名を残す水原とは当時、慶應の3塁手だった水原茂。後年、巨人に入団し選手として監督として巨人の黄金期に貢献したことで知られるが、スマートさが身上の慶應の中でも端正なマスクとユニフォーム姿がよく似合ったダンディな水原は「ミスター慶應」と呼ばれた人気ナンバーワンの選手だった。それだけに早稲田ファンにしてみれば水原こそライバル慶應を象徴する最も憎い存在であり、そうした感情があったからこそ事件をより一層大きくしてしまったのかもしれない。

 問題の事件が起きたのは早慶3回戦の9回表。3塁の守備についた水原に向かって早稲田側の応援スタンドからさまざまなものが投げ込まれ、足元に転がってきた食べかけのリンゴを水原が投げ返したことがそのきっかけとなった。

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