「昭和天皇」と東京六大学リーグとの“深い絆” 昭和4年11月、早慶天覧試合での逸話

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にっぽん野球事始――清水一利(26)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第26回目だ。

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 昭和天皇は若いころからスポーツがお好きで、中でも相撲とともに関心を持っておられたのが野球だった。1923(大正12)年8月24日、おりしも軽井沢の大隈重信の別荘で避暑中だった昭和天皇(当時は摂政宮)が早稲田の軽井沢グラウンドにわざわざ足を運び、賀陽宮と一緒に粗末なベンチに腰を下ろし、炎天下にかかわらず長時間にわたって野球部の練習を見学していることからもそれが分かるだろう。

 1926(大正15)年10月23日、完成したばかりの神宮球場では奉献式が行われ、摂政宮が出席された。当日は京浜中学リーグ選抜試合と東京六大学紅白試合の2試合が行われ、摂政宮は安部磯雄、内海弘蔵の説明をお聞きになりながら熱心にご覧になった。

 そして試合後、新球場の食堂で祝賀会が開かれ、その席上で摂政宮から東京六大学リーグに摂政杯が下賜されることが安部の口から発表された。当時、スポーツ団体に対して摂政杯が下賜されることは極めて異例なことであり、唯一、相撲だけだった。つまり、それだけ意義のあることだったのである。

 その後、1930年代に入り日本が戦争へと突き進むようになると、野球統制令が出るなど敵性スポーツである野球への文部省の締めつけが年を追うごとに厳しくなっていった。そして、ついに1943(昭和18)年、東京六大学連盟は解散を余儀なくされ、摂政杯も返還することになってしまった。

 戦争が終わってようやくリーグが復活すると、今度は摂政杯に代わって天皇杯が下賜され、令和のいまでも春、秋の優勝校には皇室の紋章である「菊花紋章」が刻印された銀製のトロフィーが授与されている。

 ところで、天皇杯は優勝校のもとに1日だけ置かれた後、次のリーグが始まるまで銀行の金庫で厳重に保管されている。そのため関係者であってもじっくり見た人はほとんどいないのだという。

 現在、天皇杯は「1競技1つ」の原則のもと、サッカー、バレーボール、水泳、柔道、バスケットボールなど22団体に下賜されており、それぞれ全日本選手権大会など全国規模の大会の優勝者(チーム)などが授与の対象となっている。

 しかしながら、野球に関しては軟式野球と硬式野球が別々の競技と見なされ、軟式野球では原則通りに全日本軟式野球大会の優勝チームに授与されているが、硬式野球はプロ野球でも高校野球でも全日本大学野球選手権でもない、わずか6校だけのリーグ戦にすぎない東京六大学リーグが選ばれているのだ。天皇杯が下賜されているスポーツ団体の中で「日本」という冠がつかないのは唯一、硬式野球だけである。これは東京六大学リーグにとってひじょうに名誉なことだ。

 連盟では2012(平成24)年から新たに入部した各校の1年生を対象にした「合同新人研修」を行って東京六大学野球部員としての心得を講義することにしており、そこでも天皇杯の意義について説いている。天皇杯には東京六大学リーグがプロ野球よりも早く始まり、日本の野球発展に貢献したという歴史的事実があるからである。

 さらに、東京六大学リーグにとって切っても切れない関係にある神宮球場の歴史にも昭和天皇が大きく関わっている。

 1926(大正15)年の完成以来94年、今日までに何度かの増改築を行なってきた神宮球場で、もっとも大きな変化は完成から5年後の1931(昭和6)年に行われた増築だろう。

 完成当初の神宮球場は何よりも景観に配慮された設計となっていた。レフトの場外には明治天皇の業績を称えるために建てられた聖徳記念絵画館があり、球場建設の際、バックネット裏の最上段に設けられた貴賓席から絵画館全体が見渡せなくてはならないという「不文律」があった。そこで、外野スタンドは内野スタンドに比べて小さく、さらに傾斜も緩くせざるを得なかったために球場全体としては3万1000人の収容人数が限度だった。

 ところが、この当時、東京六大学リーグは日本中でもっとも注目を集めるスポーツイベントとなっていた。とりわけ早慶戦ともなると、試合を見ようと多くのファンたちが神宮球場に詰めかけたのである。

 そうした中、1929(昭和4)年11月1日、初の早慶天覧試合が行われ、昭和天皇と秩父宮殿下が観戦された。もちろんその時も両校のファンが殺到し、入場できない大観衆が球場の周りを幾重にも取り囲んでいたという。

 すると、その様子をご覧になった秩父宮殿下が、

「入りたくても入れない人が球場の周りにたくさんいる。それならスタンドを増築して1人でも多くの人に見せられるようにしたほうがいいのではないか」

といわれた。そこで、同席していた連盟の関係者が、

「貴賓席から絵画館の全体が見えなくてはならないということになっておりますので、増築したくてもできないのです」

 と説明すると、昭和天皇からも、

「(増築をするのなら)絵画館のことは気にする必要はない(=増築によって絵画館が見えなくなっても構わない)。増築して多くの人に見せるようにしてはどうか」

とのお言葉があり、それがきっかけになって球場完成後初めての増築が行われることとなった。

その結果、外野スタンドの外側にそのまま継ぎ足す形で新しいスタンドが作られ、内野スタンドと外野スタンドの奥行きが同程度となって収容人数は3万1000人から一気に5万8000人に増えた。そして、神宮球場は東京六大学リーグの聖地として多くの好ゲームを生み、幾多の名選手を輩出していくのである。

【つづく】

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年8月8日掲載

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