韓国映画『殺人の追憶』実在事件34年ぶり「解決」で残る負の「追憶」(上)

国内 政治

  • ブックマーク

Advertisement

 韓国映画『パラサイト 半地下の家族』でアカデミー賞4部門を受賞したポン・ジュノ監督の、もう1つの代表作といえば『殺人の追憶』だ。2003年に公開されたが、この作品の素材になったのが、いわゆる「華城連続殺人事件」である。

 この事件は、1986年9月15日から1991年4月3日までの5年間に、韓国の京畿道華城市(当時は華城郡)で発生した13歳から71歳までの10人の女性が犠牲になった連続殺人だ。

 韓国の警察当局はさる7月2日、一連の捜査の最終結果を発表し、事件はすべて釜山教導所(刑務所)に服役している李春在(イ・チュンジェ)受刑者の犯行で、李受刑者は、このほかにも4人を殺害し、少なくとも9件の強姦事件も起こしていた、とした。

捜査は最初の犯行から34年目にようやく全容が明らかにされたわけだが、これで本当にすべての幕が下りたのだろうか。

「華城連続殺人事件」とは

 一連の犯行の大部分は女性を強姦し、殺害するという残忍なもので、華城市の台安邑、正南面、八灘面、東灘面のわずか半径約3キロ内で起こったが、犯人は長い間見つからなかった。

 犯行は、被害者のストッキングや靴下などを使って絞殺したり、手で首を絞めたりしており、凶器は使われていないという共通点があった。下着などを口に詰め、手や足を縛り、局部に桃のかけらを入れたりするという猟奇的な殺人が多く、地域住民を恐怖に陥れた。

 最初の事件で犠牲になったのは、71歳の女性だった。娘の家に泊まり、帰宅途中に襲われ絞殺された。発見時、下半身は裸だった。

 その後も殺人は続き、女子中学生や女子高校生までが犠牲になった。

 最初はそれぞれ個別の殺人事件として捜査が行われたが、帰宅する途中の人の目のない田畑や寂しい道で襲われ、犯行の手法が似ていることから、同一犯人による連続殺人事件と見なされた。

 10件のうち1988年9月に起きた、13歳の少女が犠牲になった8番目の事件は、一連の事件を模倣した犯行とされて犯人が逮捕されたが、残り9件はずっと未解決のままだった。

 連続殺人事件の現場になった京畿道華城市は、首都圏のはずれにある田舎で、都市化の波がまだ及んでいないのどかな農村地域だった。地域住民を恐怖のどん底に陥れた連続殺人事件を解決できず、警察当局は世論の激しい批判を受けた。

 韓国の殺人罪の公訴時効は15年だったが、2007年に25年になり、2015年には時効がなくなった。

 しかし、最後の犯行が法改正前だったため、15年目の2006年4月2日に、すべての事件の公訴時効が成立した。

 それまでに延べ205万人の警察官が動員され、4万人以上の指紋を照会し、2万1000人以上を取り調べ、3000人以上を容疑者として捜査したが、犯人逮捕に至らなかった。警察当局は犯人のモンタージュ写真を公開、身長165~170センチの、痩せ型の20代半ばの男性とした。

映画『殺人の追憶』

 冒頭で紹介したポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』は、一連の事件を素材にして1996年に発表されたキム・グァンリムの戯曲『私に会いに来て』を原作とした映画だ。映画である以上、具体的な内容においては事件とかなり異なった内容になっている。

 例えば、映画では殺人は雨の日だけに起きるとされているが、現実はそうではなかった。だが、事件の背景について様々な示唆を与える作品だった。

 映画では、ソン・ガンホ演じるパク・トゥマン刑事とチョ・ヨング刑事、ク・ヒボン課長が捜査に当たる。パク刑事とチョ刑事は知的障害を持つ焼肉屋の息子グァンホに目を付け、足跡の証拠をねつ造し、暴力的な取り調べで自供を取ろうとする。グァンホは殺害の様子を自供し始めた。

 しかし、ソウルから赴任してきた刑事ソ・テユンは、グァンホのマヒした手では被害者の手を縛り上げるようなことは不可能だ、と主張する。グァンホは釈放され、ク課長は解任されて後任にシン・ドンチョル課長が就く。

 当時は、韓国が民主化に向かう途中の時期で、警察では拷問や暴行がまだ残っていた時代だ。現実の事件でも、強引な捜査で容疑者を死亡に追いやるという失態も発生した。

 また模倣犯として犯人が逮捕された、1988年9月の13歳の少女殺害事件で逮捕された容疑者も、長時間眠ることを許されず拷問で虚偽の自白をしたことを後に告白し、無罪を主張した。

 映画は、刑事たちの必死の捜査や感情移入などを交えながら、当時の警察内部で「犯人」がどのようにつくられていくかを描いている。

 ソ刑事は、犯行は雨の日に行われていると指摘し、行方不明の女性が殺害されている可能性を主張、腐乱死体を発見する。

 女性警官のギオクが、犯行は、雨の日にFMラジオで『憂鬱な手紙』という曲がリクエストされた日に起きていると指摘。そして実際にリクエストされた雨の日、シン課長は水原の京畿警察庁に犯人逮捕の応援を依頼するが、京畿警察庁はデモのためにすべて出動しており、人員は回せないと拒否される。

 この描写も、1980年代後半の警察はデモ警備に人力を割かれ、刑事捜査がおろそかになっている現実を皮肉ったものだ。

 そして、『憂鬱な手紙』をリクエストした葉書が見つかり、警察は匿名の「テリョン村の寂しい男」の身元を割り出し、青年パク・ヒョンギュを連行して取り調べを行う。ところがチョ刑事が取調中の容疑者の青年にまた暴行を加え、シン課長はチョを捜査から外す。

 そんな渦中でソ刑事は、犯人でもないグァンホが犯行内容をなぜ供述したのかと疑問を抱く。

 そして気づいたのは、グァンホ自身が犯行をしたのではなく、目撃したのではないか、ということだった。

 急ぎグァンホを探して焼肉屋へ行くと、捜査を外されたチョ刑事がやけ酒を飲んでいた。店内のテレビからは、1986年に労働運動家のソウル大学生権仁淑(クオン・インスク)さんが取り調べ過程で性的暴行を受けた「富川警察署性拷問事件」のニュースが流れてきた。チョ刑事はテレビに椅子を投げて壊し、騒動になる。ここに性拷問事件のニュースを挿入するのも、社会派のポン・ジュノ監督らしい演出だ。

 焼肉屋に戻ったグァンホが暴れているチョ刑事を釘のささった棒で殴って逃げ、ソ刑事とパク刑事が跡を追う。グァンホから事情を聞こうとするが、一瞬、目をそらした隙に逃げられ、グァンホは列車に轢かれ死んでしまう。

 一方、「テリョン村の寂しい男」パク・ヒョンギュは証拠がなく釈放されるが、シン課長は科学捜査課から犯人の精液が見つかったと連絡を受ける。精液のDNAとパク・ヒョンギュのDNAが一致すれば、確実な証拠となる。

 しかし当時の韓国は、自国でDNA鑑定をする能力がなく、米国へサンプルを送って鑑定を受けるしかない――。

 映画の筋をすべて明らかにしてしまうと、まだ見ていない人の興味が薄れるだろうからこれくらいにしておこう。

33年後のDNA鑑定

 現実の連続殺人事件に戻ろう。犯人を割り出した決定的な証拠は、DNAだった。

 前述のとおり事件は2006年4月2日に時効が成立したが、捜査を続けていた警察当局は昨年7月、証拠品の一部を国立科学捜査研究院へ送ってDNA分析を依頼した。時効成立から13年後のDNA鑑定だ。

 その結果、9番目の事件である1990年11月の被害者の下着をはじめ、5、7番目の3件の事件の証拠から同一のDNAが見つかり、ほぼ犯人のDNAと見て間違いないという確証を得た。そして、そのDNAが釜山教導所に服役中の、李春在受刑者のDNAと一致したのである。

 映画『殺人の追憶』では、韓国ではDNA鑑定はできないとされたが、韓国の警察当局は最初の事件が1986年9月に発生してから約33年後に、DNA鑑定を自らの手で行い、ようやく犯人を捜し出すことに成功した。

 最後の犯行は、1991年4月である。事件は迷宮入りしたが、犯人は生きていると思われた。しかし、ここまで連続で残忍かつ大胆な犯行を重ねて来た犯人がなぜ、ぷっつりと犯行をストップしたのか謎であった。

 それは、李春在受刑者が犯行を自重したのではなく、1994年1月に、自分の妻の妹を強姦して殺害するという残忍な事件を起こし、その事件で逮捕されて刑務所に収監されていたために、犯行が起きなかったのだった。

華城市と清州市の関連をつかめず

 DNAが一致した李春在受刑者は1994年1月13日、忠清北道清州市の自分の家を訪れた妻の妹(当時19歳)を殺害し、無期懲役で服役中だった。李受刑者は義妹に睡眠薬の入った飲み物を飲ませた後、性的暴行を加えて殺害した。

『ハンギョレ新聞』が裁判記録によるものとして報道したところによると、犠牲になった義妹は首を絞められ殺害された(鈍器で殴られて死亡したとの報道もある)後に、自宅から約880メートル離れた場所に手足をストッキングで縛られ遺棄されていた。華城連続殺人事件の犯行と似た手口だった。

 結婚した李受刑者は1993年4月に、それまで住んでいた華城郡から清州市に転居し、1年も経たないうちに犯した犯罪だった。当時、妻は家出をしていた。

 李受刑者が華城に居住していたことを考えれば、清州と華城の警察当局が捜査協力をすべきであった。当時、清州西部警察署は李受刑者が住んでいた華城の自宅を家宅捜索し、華城捜査本部も容疑者を連れてくるよう要請したが、捜査協力は実現せず、華城連続殺人事件と清州市の殺人事件をつなげることができなかった。

 華城連続殺人事件は見知らぬ女性を待ち伏せして襲って殺害するという犯行で、清州市の事件は人間関係のある義妹を殺害したという違いから、これらを関連づけることができなかったという。

 李受刑者は義妹殺害事件で、1審では、

「犯行は計画的で緻密に行われ、反省の色もなく許しがたい」

 として死刑を宣告され、控訴審でも同じ判決だった。しかし大法院(最高裁)は1995年1月、

「性的暴行から殺害までが計画的に行われたかどうかが明確でない」

 として原審を破棄し、高裁に差し戻した。この結果、同年5月に高裁は無期懲役を言い渡し、大法院もこれを確定し、以来李受刑者は釜山教導所で服役中であった。

 韓国の大法院が死刑判決を破棄していなければ、李春在受刑者は死刑を執行され、華城連続殺人事件は迷宮入りしたまま終わったかもしれない。

 死刑を免れた李受刑者は釜山教導所では模範囚だという。

似ていたモンタージュ写真

 警察当局は1988年に、犯人を身長165~170センチ、24歳~27歳で、髪型はスポーツ型として、モンタージュ写真を作成し、懸賞金500万ウォン(約44万円)を付けて市民に情報提供を求めた。

 1988年9月に発生した、52歳の女性が殺害された7番目の事件では、犯行現場から少し離れた地点で、停留所でもないのに手を振ってバスに乗った20代の男性がいた。バスの運転手や乗務員がこの男性を見ていたが、雨が降っていないのに、ズボンの下が濡れて泥がついていたという。警察はこの男性を有力容疑者とみて、モンタージュ写真を作成した。

 実際に李受刑者が犯人だと判明してみると、このモンタージュ写真は、李受刑者の顔の特徴をよく掴んでいる。これだけ似たモンタージュ写真が存在したのに、なぜ李受刑者にたどりつけなかったのかが不思議なほどだ。

3度捜査対象になっていた李春在受刑者

 李受刑者は、連続殺人事件が起きた華城市に居住していた。前述のような大掛かりな捜査が行われたので、捜査対象にならなかったわけはない。李受刑者は3回、捜査対象になっていた。

 1回目は、華城連続殺人事件とは関係のない1986年8月に発生した強姦事件の容疑者として浮上し、1987年7月に警察の取り調べを受けたが、証拠がなかった。1987年5月に28歳の女性が殺害された、6番目の事件の直後だった。

 この6番目の事件では犯人の足跡が残っていたが、この足跡から見た足の大きさと李受刑者の足の大きさに差があり、容疑者リストから外れたという。映画『殺人の追憶』では、刑事たちが実際の足跡を現場保存できず、自分で足跡をつくるという話が挿入されているが、李受刑者は「足跡」で捜査を逃れたとみられる。

 2回目は、1988年9月に起きた13歳の少女が殺害された8番目の事件に関連したもので、警察は同年11月に李受刑者への捜査をしていた。

 さらに1991年4月に67歳の女性が殺害された10番目の事件でも、3回目の捜査の対象に挙がった。

 結果的に李受刑者が警察当局の捜査を逃れたのは、ずさんな血液鑑定の結果とみられている。

 警察は、現場に残された犯人の体毛や精液から、犯人の血液型はB型とみていたが、李受刑者の血液型はO型であった。今回、李受刑者を犯人と割り出したのは韓国警察のDNA鑑定能力、科学捜査の発展の結果であったが、李受刑者を見逃してきたのは逆に韓国警察の科学捜査のずさんさの結果であった。

 当時は、体毛などから血液型を判明することが難しかったにもかかわらず、B型と信じ込んだ捜査が犯人を逃し、その後の殺人事件を生んでしまった。

 捜査本部は最終捜査発表で、

「当時の証拠収集に問題があったと推定している。今の観点でみれば、捜査に問題があった」

 と指摘した。

「いつかはこういう日が来ると思った」

 DNA鑑定結果を得た韓国の警察当局はすぐさま釜山教導所に捜査員を送り、李受刑者の尋問に当たったが、当初は否認を続けたという。が、専門のプロファイラー(犯罪心理分析官)9人を投入し、2019年9月24日に自供を得ることに成功した。

 李受刑者は、

「DNAの証拠も出たというからどうしようもないね。いつかはこういう日が来ると思った」

 と語り、自白を始めた。

 そして当局は10月2日、軍隊を除隊した後に犯した14件の殺人と三十数件の性犯罪について自供したと発表した。李受刑者とプロファイラーの間に信頼関係が生まれ、9月下旬から犯行を自供し始めたとした。

 しかし、この発表を伝える韓国のメディアは、華城連続殺人事件の犯人が逮捕された8番目の事件を除く9件と、さらに5件の殺人事件を自供したと報じ、8番目の事件は李受刑者の犯行ではないという報道を続けていた。(つづく)

平井久志
ジャーナリスト。1952年香川県生れ。75年早稲田大学法学部卒業、共同通信社に入社。外信部、ソウル支局長、北京特派員、編集委員兼論説委員などを経て2012年3月に定年退社。現在、共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞受賞。同年、瀋陽事件や北朝鮮経済改革などの朝鮮問題報道でボーン・上田賞受賞。 著書に『ソウル打令―反日と嫌韓の谷間で―』『日韓子育て戦争―「虹」と「星」が架ける橋―』(共に徳間書店)、『コリア打令―あまりにダイナミックな韓国人の現住所―』(ビジネス社)、『なぜ北朝鮮は孤立するのか 金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書)『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』(岩波現代文庫)など。

Foresight 2020年8月5日掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。