コロナ感染者増で「自粛警察」がまた跋扈――古谷経衡

国内 社会 週刊新潮 2020年7月30日号掲載

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 コロナ感染者は増加の一途を辿り、「同調圧力」と「自粛警察」がまたぞろ跋扈するのは時間の問題だ。いつの時代も「世間」に抗えない日本人の闇を作家・古谷経衡氏が喝破する。

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 ルネサンス時代の真っただ中の16世紀、ヨーロッパでは局地的に黒死病(ペスト)が蔓延し、また、太陽活動の異常から小氷期となり各地で大凶作が続いた(諸説あり)。社会は動揺し、キリスト教圏の教会指導者は魔女狩りと並行して、農地を侵蝕してくる氷河や大量発生する害虫を「破門」することにより、天変地異を逃れようとした(池上俊一著『動物裁判』講談社)。

 近代科学が確立される前の中・近世欧州ならば、このような似非科学にすがるのも致し方のないことだ――と、現代人は嗤って馬鹿にするかもしれない。しかし、コロナ禍によって現代日本人ひいては人類全般の感覚も、この時代と大して変わらないことが証明されたように思う。

 コロナ騒動が勃発するや否や、小売店やドラッグストアからトイレットペーパーが消えた。日本の製紙能力はほぼ100%国内で賄われており、世界に冠たる製紙大国である。その製紙能力を知っていればトイレ紙が店頭から消えることなどありえないことだが、人々はネット上に跋扈した似非科学・デマを信じ、我先にと箱買いに走った。オークションサイトではある種の岩石から出る放射線が新型コロナ感染を防ぐ、と喧伝され高値で取引された。日本の理科教育、ひいては科学教育とは何だったのか。

 これらと同様か、もっと低俗なパニックが西欧でも起こった。

 特にアメリカでは一般家庭が大容量の冷蔵庫を完備し、週に1回程度のまとめ買いが常態化している。店頭から物品が消えうせるといったデマに惑わされてスーパーマーケットの棚は空になった。私たちが信じてきた人類進歩の前衛たる西欧近代の進歩主義が、いとも簡単に崩れ去った瞬間である。

 そもそも、全米では銃犯罪による死者が毎年3万人にのぼる。単純計算でその犠牲者は10年に30万人である。関連傷害を含めればその数は数十倍になる。にもかかわらず、CNNもNBCもCBSも第2次大戦やベトナム戦争の死者と比較してコロナ被害が如何に甚大かを語る。

 いやいや、貴方の国の足元で起こっている犯罪で、コロナ禍の累計の何十倍もの死者が出ているのだが――。ところが、そうした内省はほぼ皆無であった。この時こそ、全米ライフル協会の欺瞞や銃犯罪の宿痾をリベラル派が比較対象として口撃する絶好の機会の筈だが、CNNは「COVID-19」が如何に恐ろしいかの話題で持ちきりなのである。

 しかるにこの欧米人の狼狽ぶりは日本以上に惨憺たるもので、その兆しは思えば2011年の福島原発事故当時から垣間見えていた。空間線量にして0・23μシーベルト/時を瞬間的に超過したという理由だけで、家族帯同で横須賀から逃げ出そうと真剣に検討したのは、他でもない在日米軍第7艦隊司令部である。流石にこの行動は日米同盟の「紐帯」を揺るがすものとして退けられたが、いわんや日本国内でも福島事故で「今後5年で首都圏数百万人のがん死」が出ると盛んに喧伝された。ところが、事故後10年を経てその主張は全く科学的に立証されないどころか、日本人の平均余命は伸び続けている(拙著『日本を蝕む「極論」の正体』新潮社、同『草食系のための対米自立論』小学館)。

 いやはやコロナ禍で西欧近代の終焉を垣間見た気がする。そして、私たち日本人が明治維新以来150年を経て、戦後も「近代合理主義・近代科学主義の教師」として欧米を追従の範と見てきた世界観は、彼らのこのような狼狽を以て、もはや水泡に帰すと判断しても差支えないのではないか。

 4月の緊急事態宣言が発せられる前、テレビ局もラジオ局も、その他のメディア関係者も、「新型コロナは人類が過去に経験してきた感染症との闘いの繰り返しに過ぎず、自粛は過剰反応であり、気にする必要はない」という意見が圧倒的大多数であった。少なくとも3月中旬ぐらいまで、メディア関係者には「リモート放送」という概念自体が無かった。ところが、宣言が出されるや否や、各局は出演者にマスク着用は当然のことながら入局前の検温(体温が37・5度を超えるか否か)と、感染拡大防止を大義名分として自宅からの出演に切り替えた。「37・5度以上」という目安は、PCR検査を受ける科学的根拠に「ならない」として後に撤回されたにも拘わらず、金科玉条の如くこの方針は貫徹された。

 私は「たとえ焦土と化しても局に伺います」と言い張り、最後までこの方針に抵抗した。特にラジオ出演については、他の演者との掛け合いが命である。自宅からの放送では、どうしてもゼロコンマ3~5秒のディレイ(遅延)が生じる。無線通信とは言わないまでも感覚的にはそれに近い。しかし、局の方針にいち出演者が抗う訳にもいかず、渋々私はこれに服した。だが大っぴらには言わないが、メディア関係者のほとんどはこの措置を現在でも馬鹿馬鹿しいと思っている筈だ。

 では、なぜこのような措置が講じられているかというと、一にも二にも視聴者(あるいは聴取者)から「この非常時にどうして“密”な状態で放送しているのか」というクレームが寄せられるからである。要するに、日本社会全体の「同調圧力」に社会の公器たるメディアが屈したのである。

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