ホストクラブ「愛本店」が一時閉店 カリスマ「愛田武」夫妻の波乱万丈人生

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 新宿歌舞伎町の老舗ホストクラブ「愛本店」が、この6月をもって一時閉店した。入居するビルの老朽化による“一時移転”で8月には店舗を移して再営業する予定だという。

 半世紀に及び、有閑マダムや女性実業家、水商売関係の“夜の蝶”たちら、癒しを求める女性客たちに支えられてきた「愛本店」。「ホスト界のカリスマ」と呼ばれ、日本独特の風俗文化のひとつとして、ホスト界を世に知らしめた功績者が、故・愛田武(享年78)だった。二人三脚で「愛本店」を築き、守って来た愛田武・朱美夫妻に、かつてインタビューをしたことがある。

「今でも思い出すなぁ。中学校の修学旅行で、新潟の田舎から歌舞伎町に来て、人の多さと賑やかさに驚いた。『東京に出たら、絶対にここで何かをやりたい』と思ったんだ、あの頃」

朱美「あら、そうだったの? 当時はきっと、歌舞伎町がいちばん賑やかだった頃よね。歌舞伎町に店を出して36年目。この街の歴史が、そのままふたりの歴史ですね」

 これは2006年当時の、愛田夫妻の言葉だ。

 愛田武が、少年時代の夢を実現したのは、1971年のこと。憧れの地だった新宿歌舞伎町に「女性専用クラブ 愛」を創業する。事業は順調に拡大し、1990年代は業界も最盛期を迎え、5店舗の系列店を含む「愛田観光グループ」は、300名以上の従業員を抱えて年商25億円をたたき出していたという。

「成功譚」の裏で、愛田夫妻の二人三脚の人生は、まさに波瀾万丈だった。

 新潟県の高校を卒業後、上京した武は、ベッドの訪問販売営業マンとして抜群の成績を誇り、その後は防犯器具やカツラを扱う会社を興すも、いずれも倒産。28歳になった武が友人の勧めでホストの世界に足を踏み入れたのは、当時、初めて歌舞伎町にできた、風林会館地下2階「ロイヤル」だった。ホストクラブ創成期で、この頃の歌舞伎町にはまだ数軒の店が点在していただけだったと聞く。

 みるみるうちに頭角を現した武は、1969年、渋谷にある「ナイト宮益」に引き抜かれ、朱美と運命の出会いをする。朱美は、有名建築家にして和光大学初代理事長だった岡田哲郎を父に持つ令嬢で、武より10歳年上だった。この頃、エリート銀行マンの夫と2人の愛娘とともに、何不自由ない結婚生活を送っていたという。いかにも“お嬢様育ち”を隠しきれない、おっとりとした口調で、朱美は武との出会いを振り返っていたものだった。

「パーティの帰りにお友達に誘われて、初めてホストクラブに足を踏み入れたんです。当時の愛田は、そこらへんの田舎のお兄ちゃんみたい。青い、鯖みたいに光るスーツを着ていてね。でも、何はさておき、その笑顔がよかったの」

 4回、5回と通ううち、セレブな妻は“ナンバーワンホスト”の武にいつしか恋心を抱くようになる。30歳までに独立を考えていた武は、ある日、朱美とともに東京駅八重洲口にあった大店「ナイト東京」へ、敵情視察に訪れた。すると支度金付きでスカウトされてしまい、同店でもあっという間にナンバーワンに。顧客をじゅうぶんに獲得した武は、満を持して、1971年に「愛本店」を開くに至る。

「開店するにあたって、こんな考えはどうかしら? などとふたりでアイデアを出し合ったり、結びつきが強くなりました。まるで戦友のようでした」

 そう語っていた朱美は、当時の夫とは家庭内別居を貫き、「子どもの物心がつくようになったら離婚を」と心に決めていた。武との恋愛は、家庭内ではもちろんのこと、女性客相手の仕事ゆえ、周囲にも徹底的に隠し通した。人目を忍ぶ交際は7年に及び、身辺を整理して、鞄ひとつで愛田の元に駆け付けてから3年後。やっと正式に婚姻届を出すに至ったという。

 しかし、晴れて夫婦に――との喜びも、安堵する間もなく夫の隠し子が次々に現れた。

朱美「長男と次男は、私と出会う前にいた子だから、それはいいんです。でも、今から4年前(*2002年)、いきなり現れた3番目の息子には本当に驚いた。私と知り合ってからできた子なんですよ」

「3人くらいで驚いててどうすんだよねぇ(笑)」

朱美「その話を聞いた時、日本料理屋さんにいたんですが、もうなりふり構わずに怒鳴っちゃったの。この時ばかりは本当に別れようと思いました。でも、その息子に会ったらニコニコとした本当にいい子で、可愛くて。何度か考えまして、うちの店に入れて仕事をしてもらうことにしました。真面目でいい子なんですよ」

 この3番目の息子には、当時の「愛本店」の店長を任せ、長男、次男もともに系列店の経営に関わらせた。驚くことに、武の次男は、朱美の次女と結婚したという(*のちに離婚)。その年齢差は、武と朱美とまったく同じ。10歳上の姉さん女房だったという。

朱美「子どもの頃からそれぞれ私たち夫婦の元に来て、一緒に遊んでいたふたりが年頃になったら……繋がっていたんです。血の繋がりはなくとも戸籍上は姉弟ですから、愛田は嫌がっていました。結局、私たちふたりの血を受け継いだ子どもはいないけれど、孫には愛田と私の血が流れているということになりますね」

「私も母親が違う息子たちを3人も籍に入れていて、何も文句言えないしね」

朱美「長女は有名女子大の英文科まで出たんですが、系列のおなべバー『ニューマリリン』のママに(*2019年5月閉店)。愛田を中心に結束が固いんです。みんな愛田が大好きなんですね。結局、内輪でやっている父ちゃん母ちゃんの“3ちゃん企業”なんですよ」

 優雅にコーヒーを口にしながら、少女のように笑っていた朱美を思い出す。この2006年当時の武は65歳、朱美は75歳。愛田夫妻は公私ともに、穏やかに“円熟期”を迎えていた時期だったのだろう。

 その後、武は脳梗塞を3度患い、認知症の兆候が出ると、2014年に経営から引退。業界最大手グループに経営権を譲渡し、「愛田観光グループ」は「タケシ観光株式会社」としてその名を残され、晩年は後継者たちに「名誉会長」と呼ばれて敬意を表された。

 15年に、武はひとり、東京郊外の老人介護施設に入居している。以来、武が育てた歌舞伎町のホストたちは、武の愛飲していたビールを手に、足繁く訪れていたという。その一方で、愛田夫妻の次男と三男は、夜の街にまみれ、相次いで命を絶った。歌舞伎町という街に咲き誇った「カリスマ・愛田武」を中心に、結束の固かった一族は、大輪の花がしおれるとともに、1枚、1枚と、花びらを散らしてしまったかのようだった。

 2018年10月に他界した愛田武の盛大な葬儀は、11月5日、「タケシ観光株式会社社葬」として、黄金のシャンパンタワーに彩られ、華やかに執り行われた。

 そのまさに2日後。別の老人介護施設で晩年を過ごしていた妻の朱美が、武の後を追うように、この世を去った。高齢者特有の症状もあり、愛し愛された夫――戦友でもあった武の死は、知らないままの最期だったという。

 その宿命を終えたのだろうか。今、愛田夫妻が築いた“城”が取り壊されている。子や孫のようなホストたちに“大ママ”と呼ばれ慕われた朱美が、かつて口にした言葉がさらに心に刻まれるのだ。

「この街の歴史が、そのままふたりの歴史ですね」。

佐藤祥子/ノンフィクションライター

週刊新潮WEB取材班編集

2020年7月14日掲載

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