床ずれは忘れたころにやって来る 100日ぶりに自宅に戻った妻──在宅で妻を介護するということ(第3回)

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在宅1週間、宿敵の褥瘡(じょくそう)現る

 在宅4日目。顔を見ると、昨日よりスッキリしている。しっかり睡眠がとれたかなと思い、もう一度よく見て気が付いた。栄養剤を注入するために鼻に差してあるチューブが外れ、掛布団の上にあったのである。寝ている間に無意識で手で払い取ってしまったようだ。

 意識障害や嚥下障害などがあり、自分の口からものを食べられなくなった人には「経管栄養」といって、鼻や口から胃まで届くチューブを経由して食事をとる。点滴の要領で上から吊るした栄養剤パックのキャップを外し、左右どちらかの鼻の穴から伸びたチューブと連結し、ビタミンや栄養を注入するのだ。あるいは胃婁(いろう)を設置して、お腹から栄養剤を流しこむ。女房の場合は前者(経鼻経管栄養)で、鼻から出た管はいつも白いテープで鼻の頭に固定されていた。それがない。道理でスッキリしているはずだ。

 一瞬焦ったが、栄養補給中でなければ大きな問題はない。次の食事の時間までに、チューブをまた差し込んでおけばいいのだが、これは医療行為となり、そのためだけに医師を呼ばねばならない。正味3分ほどの作業のために多忙な医師を呼びつけるのは気が引ける、というのは方便で、1回7千円(訪問診療代は介護保険ではなく医療保険)もとられるのが痛かった。これに懲りて、以来、寝る前には必ず鼻の頭を確認するようになった。

「ゲッ、コレって縟瘡(じょくそう=床ずれ)じゃん!!」

 7日目の朝だった。おむつ交換で身体を横にしたとき、お尻の骨の一番尖った部分(仙骨)の皮膚が赤く擦り剥けたようになっているのに気づいた。まさかと顔を近付けてみると、範囲は直径2cmくらいと小さかったが、ネットの縟瘡写真と同じだった。

 長期療養における永遠の課題・縟瘡。病院や施設では、看護・介護職員が毎月のように褥瘡予防の勉強会を開いているのを、私は仕事を通じて知っていた。

 一度できたら当分治らないこと、治っても気を緩めるとすぐ再発する怖いものだと知っていた。それだけに最大の注意を払い、就寝している間も自動的に寝返りが打てる最新の介護ベッドをレンタルした。なのに、できてしまったのだ。

 機械まかせにしたのが悪かったのだ。労を惜しまず、夜中でも眠い目をこすって体位交換するのが介護者の務めではないのか…。夕方になって訪問看護師にそれを話すと、異例のスピードで縟瘡ができたことに疑念を抱いた彼女は、マットレスのシーツをめくるや、「あら、エアーマットじゃないんですね」と首をかしげたのだ。それは、一般のベッドに使われているような普通のマットレスだった。

 盲点を突かれたような気がした。自動寝返りという機能ばかりに注目していたが、1日24時間患者の皮膚と接触し、体圧を受け止めるのはマットである。マットの材質が硬かったり弾力が不十分だったりすると、皮膚との摩擦は逆に大きくなってしまう可能性がある。そういえば、これまで入院していた病院のベッドはエアーであった。スタッフの努力もあったろうが、皮膚のトラブルは皆無だった。

 即刻、ベッドのレンタル会社に問い合わせ、床ずれ防止用のエアマットレスに変えてもらった。すると、褥瘡は日々改善に向かい、赤く擦れた中心部に白い芯のようなものができていたのが自然に消え、長い時間をかけて下から薄いピンク色の新しい皮膚が形成されていった。

 一度できたらおそろしくしつこいのが縟瘡である。治療用の軟膏を塗り、べたつきがとれたところで患部をカバーする透明のシールを貼り、最後はおむつ交換の度にワセリンを厚く塗ることで抑え込んだ。完治したのは4月初旬。1週間でできたものを治すのに、なんと3カ月半もかかってしまったが、宿敵をねじ伏せたことでまた在宅介護への自信は深まっていった。

 こんな調子で、在宅1週間は過ぎていった。ときに自分の中で増殖した不安が牙をむくこともあったが、手応えとしては十分で、準備していた通りに物事が運んだ気がした。ここまでは想定通りである。「在宅」恐れるに足らずという思いはさらに強くなっていった。

「家に戻ってよかったね」──在宅10日目の気持ちの良い朝、目を開いた女房に私は無意識に声をかけた。「ウン」──答えなど全く期待していなかったが、うなずくだけでなくしっかりした声が返って来た。

 彼女の肉声を聞くのは何カ月ぶりだろう。一言だけで十分だった。私はこの時点で、「在宅」の成功を確信した。

平尾俊郎:1952(昭和27)年横浜市生まれ。明治大学卒業。企業広報誌等の編集を経てフリーライターとして独立。著書に『二十年後 くらしの未来図』ほか。

2020年7月2日掲載

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