清原和博、執行猶予明けで「キヨさんに救われたエピソード」を蔵出しで

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難病の子へのサインと徳光ファミリーへの“プレゼント”

 また、少しずれたので本道に戻しますと、その後、紆余曲折を経てFA権を行使し憧れだった東京読売巨人軍に入団しますと、想像以上のバッシングに苦しんで少し乱暴な振る舞いや言動をするようになり「番長」などと揶揄するマスコミやファンも増えていきました。もっとも、当時取材にあたっていた方の話を聞きますと、そういう立ち居振る舞いだけの人ではなかったそうです。

「清原さん、確かに恐い雰囲気がありましたし、取材で近づいても素通りされることもありました。ただ、私の友人の息子さんが難病を患っておりまして、その子から清原さんのサインが欲しいと頼まれたので、意を決して清原さんに話してみたんです。そうしましたら、黙ってペンと色紙を取り、サインと宛名を入れて激励の言葉まで書いてくださったんです。そして、別れ際に口に人差し指をあてニコリとしてくれました。その表情を見た時に絶対に悪い人ではないなと確信しました」

 というエピソードも伺いましたし、かくいう私も20代後半に大失恋をしまして、落ち込む私を見かねた父が、清原さんとのゴルフに誘ってくれたことがありました。

 ゴルフ場に到着して紹介される前、トイレですれ違った際にあの体躯と鋭い眼光にとにかくたじろぎました。しかし、ラウンドをしながら話をすると大変穏やかな方で「ただの失恋ならええやん、俺なんて裁判になったことあるからね」と自身のエピソードを交えて慰めてくださいました。

 そして当時、清原さんがよく着用していたTシャツとパーカーをプレゼントしてくださることになり、住所を渡しましたら「サイズも書いといて、俺のサイズだと着られないでしょ?」と気配りまでしていただきました。

 さらに私の父和夫が2001年に急性心筋梗塞で倒れた時、3打席連続ホームランを打ったバットに激励文とサインを添えてプレゼントしてくださったこともありました。大の巨人ファンであり清原ファンである父にとって、3打席連続ホームランだけでも最高のプレゼントなのにそのバット(3本目のホームランを放った際に亀裂が入っている)までくださるなんて、私たち家族は感涙しましたし、偶然かバットのおかげか父の容体がその後みるみるうちに回復していったことを、昨日のことのように覚えております。

 そして志半ばで巨人を退団しオリックスに移籍する時には、感謝の言葉が綴られた直筆の手紙(10枚以上に亘るもの)を父によこしてくださったこともあります。

 薬物依存との戦いは、御本人もおっしゃる通り生きている限り続くものと思われます。私たち親子のように清原さんに救って頂いて端っこで生きている者、そして清原さんを支える野球関係者を始めとする仲間、そしてご子息や元の奥様、皆さんが清原さんのことを応援しています。決して無理をせず過度なプレッシャーを感じずに、新しい清原和博の人生を全うして欲しく思うとともに、マスコミの皆さんや媒体越しに清原さんを見つめる皆さんも悪意を抱かないで、見守っていただけたらと思う次第でございます。

徳光正行
1971年12月生まれ。茅ヶ崎市出身。日本大学芸術学部在学中よりミュージシャンを目指すが、父の病により断念。その後、司会業やタレント業に従事する。また執筆活動にも着手し、『伝説になった男~三沢光晴という人~』『怪談手帖シリーズ』、岩井志麻子氏との共著に『凶鳴怪談』がある。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年6月29日掲載

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