「コロナ禍」に「貝毒」三陸「ホヤ漁師」先の見えない「深い霧」

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 6月上旬、およそ1年ぶりに訪ねた牡鹿半島(宮城県石巻市)。美しい三陸復興国立公園の南端らしく、リアス式海岸の道の入り江はまぶしいほど明るく、新型コロナウイルス禍の鬱屈を晴らしてくれる。

が、9年前の東日本大震災で被災した浜々の集落は跡形もなく、復旧工事もいまだ終わらず、住民の多くは流出し、工事関係者以外の人の姿も見えない。

半島に残る漁師たちの復興の拠り所は、昔から変わらず豊かな魚介をはぐくむ宝の海だ。

ところが、震災の津波の後、三陸の海に原因不明の「異変」が続く。養殖のホタテなどに広がった深刻な「貝毒」で、それが今年、宮城特産のホヤ(マボヤ・尾索動物亜門ホヤ綱の海産動物)にも前例のない形で現れた。旬に入った5月半ばから水揚げ、出荷の自粛が続き、最高の味覚のホヤは海に浸かったまま。

復興がいまだ遠い中、大消費地だった韓国の禁輸で販路を絶たれ、希望を託す国内の新型コロナ禍終息を待っていた漁業者たちに、新たな難題が降りかかっている。

予期せぬ貝毒の出現

 太平洋に突き出た牡鹿半島東岸の鮫浦湾。入り江ごとに生態系が異なり、カキ、ホタテが専門に養殖される所が多いが、鮫浦湾には希少なホヤの天然種苗が自生する。

漁師たちは12月下旬にカキ殻をつないだ長い束を何百本と海中に垂らし、そこに微小な幼生を付着させて、赤茶色の殻が丸々となった成体に育つのをひたすら待つ。

ホタテが稚貝から1年、カキが種苗から2年で出荷されるのに比べ、ホヤは水揚げまで34年もかかるが、無骨な殻の中の鮮やかなパイナップル色の身は、海の香りが濃厚で芳醇な旨味に満ちる。

震災後の2014年から取材の縁を重ねる地元鮫浦の漁師阿部誠二さん(36)を訪ねた。

断崖の岩山に挟まれた入り江の鮫浦港は、津波の後の復旧工事が昨年ようやく終わり、コンクリートの防波堤が真新しい。岸壁で10隻ほどの小型漁船がたゆたうが、人影はなく異様ほど静かだった。

集落が流された空地の一角に納屋と作業小屋があり、Tシャツ姿で日に焼けた阿部さんと、手作業で漁網を編む父忠雄さん(70)が話をしていた。この朝、牡鹿半島の先端に浮かぶ金華山近くの海まで2人で船を出し、ヒラメ漁をしたという。

「ヒラメは、9年前に津波で流されたホヤの減収を補うために捕り始めた。5月の連休明けから漁期で魚体が大きく、いい値でさばけるので、何とか息をつけている。旬になったホヤの水揚げが立ち往生になってしまったから……。ホヤの貝毒など、震災前は聞いたことがなかった」

 鮫浦湾がある牡鹿半島東岸から女川町、石巻市北上町にかけての宮城県中部海域で水揚げされたホヤから、「麻痺性貝毒」が検出されたのは518日。出荷の要件となる県漁協の検査で、記録が残る1992年以降で初めての規制値超えという。

検査は毎週1回火曜日に行われ、規制値超えが1度出ると海域全体で出荷自粛とされる。消費者のため安全性を厳しく確保する観点から、以後の検査で規制値未満を3週連続でクリアしなければ解除されない。中部海域のホヤは69日の検査まで連続で基準値を超え、同16日はクリアしたものの、先の見通しはまだ開けない。

阿部さんは鮫浦湾の一角でカキ殻付きの養殖ロープを約500本垂らし、15年目のホヤを計画的に育ててきた。

4月半ばから今年の水揚げを始めた。育ち過ぎたくらいの“五年子”(5年もの)を早く出荷しようと作業を急ぎ、あと3日で終わるところまできて、ここの海域で貝毒検出のニュースが流れた。つながりのある買い付け業者に無理やり頼んで、やっと出荷できたんだ。水揚げシーズンは9月まであるが、旬は5月から7月。なのに、ただ海に漬けておかねばならないとは。“六年子”になったら、皮だけが厚くなって、もう売り物にならない。何とか3週続けてクリアの朗報を聞きたいが」

ホタテには頻発、長期化

地元紙『河北新報』も529日、こう伝えた。

〈県内の鮮魚店では旬のホヤが店頭に並ばない異例の6月を迎える。(宮城県)南三陸町戸倉で店を営む西城寛さん(70)は「ホヤは夏場の看板商品。時季のものがないと寂しい」と話す。

 出荷再開には、毒性を示す数値が3週連続で規制値を下回る必要がある。県漁協ホヤ部会長の阿部次夫さん(68)は「生産者は震災の時より厳しく、苦しい状況にいる。廃業が増えないといいが」と危惧する〉

 牡鹿半島をほぼ南限とする宮城県内のホヤの生産量は、三陸から北海道に至る国内産地の9割を占めるといわれる。地域の鮮魚店だけの話でなく、今年は新型コロナ禍のため料理店や居酒屋の需要も落ち込み、ホヤの市場価格は(殻付きで)キロ当たり60円ほど、例年の6割止まりの状況だった。

同県内では56日に飲食店、大型店などへの時短営業、休業要請が解除され、「コロナ明け」は漁業者にとって、待ちに待った朗報のはずだった。

麻痺性貝毒とは、有毒渦鞭毛藻、つまり毒素を持った植物性プランクトンを餌にし蓄積した二枚貝などが毒化し、フグ毒に似るといわれる。震災後、岩手県南のホタテ産地で頻発し、ホタテ祭りが中止されるほど水揚げが激減。20181218日の『河北新報』に『貝毒深刻 三陸ホタテ危機/水揚げ、「史上最悪」の昨年比6割に/水産加工業にも打撃』という記事も載った。

 貝毒は有毒プランクトン発生が減れば自然に抜けるが、この記事のような頻発・長期化が震災後の現象になった。

筆者が以前取材した片山知史東北大大学院教授(水産資源生態学)は、

「麻痺性の貝毒は震災前には少なく、津波で海底の砂や土が巻き上げられ、休眠していたプランクトンの種(胞子)が蔓延したのではないか」

との仮説を語った。

阿部さんの仲間で、鮫浦湾でホヤ養殖に取り組む若手漁師たちの「谷川(やがわ)支所青年部」(2016年結成、17人)の初代会長、渥美政雄さん(42)は、ホタテの養殖も営んできた。

「ホタテはその後、貝毒のない貝柱の部分だけなら(内臓と切り分けて)出荷してよい、と県漁協が条件付きで出荷自粛を解除した。やはり新型コロナ禍の影響で相場は6割ほどだが、いくらかでも生産費の回収はできる。だが、(身全体に貝毒がたまる)ホヤはそうはできない。ホヤの生態も、われわれ青年部が鮫浦湾の資源管理のために潜水士資格を取って調べ始めたばかり。なぜホヤに貝毒が出たのか分からず、対策の立てようもなく、とりわけホヤ養殖一本で暮らす仲間たちは本当に困っている」

 ホヤに復興の希望を託した漁師たちは、震災後の初水揚げの日から、新たな苦難を背負わされていた。

禁輸ショックから再起

〈赤茶色の丸々とした塊が海から次々に揚げられた。船上でロープを引っ張る阿部誠二さん(30)の顔がパッとほころぶ。

「いいなあ。予想したよりも大きい」。殻を割り、黄色に輝くホヤの身を父忠雄さん(64)と分かち合った。大津波から33カ月余り。微妙なえぐみが甘さに変わる、深い味わいは健在だ。

6月下旬、石巻市の牡鹿半島東岸にある鮫浦湾は、被災後の2011年暮れに湾内で種苗を付けた養殖ホヤが、初の収穫期を迎えた〉

6年前の201476日、筆者は当時記者をしていた『河北新報』でこう報じた。阿部さんの震災後初水揚げのシーズンを取材し、早朝の船に同乗して見た喜びの光景だった。

しかし、復活したホヤはこの時すでに、大口の売り先を失っていた。

 前年7月、南に100キロ余りの東京電力福島第1原子力発電所で汚染水の海洋流出が発覚し、間もなく韓国政府が「安全性」を問題にして、東北の被災3県を含む東日本産の水産物輸入禁止を決定。韓国は毎年、宮城県産ホヤの78割を買い付けた大消費地だった。

販路喪失、相場暴落とともに、水揚げ期が来たまま行き場のない海中のホヤが2016年には約14000トンに達し、その半分以上が県漁協の苦渋の判断で廃棄処分された。

韓国の禁輸解除は昨年4月、日本政府が「科学的根拠のない差別的措置」として同国を訴えたWTO(世界貿易機関)の裁定で敗訴の結果となり、当面の望みを絶たれた。

深刻な人口減少など傷痕のいまだ大きな津波、原発事故の海を越えた風評、ホヤの販路喪失……。それでも宮城、岩手など漁協や漁業者、水産加工業者らは、国内の消費者を最後の頼みの綱として、市場開拓の模索を重ねた。

地域の将来への危機感から、渥美さんら谷川支所青年部は「ホヤを知ろう、食べよう」と、東京の居酒屋や石巻のスペイン料理店で産地直送の交流イベント「ホヤナイト」を催したり、地元の小学生にホヤの試食と養殖の体験学習をしてもらったり、「酒呑みの珍味」を超えて若い世代に味を伝える活動をしてきた(2019129日『韓国「禁輸」石巻名物「ホヤ」復活を目指す「若手漁師」らの奮闘』)。

阿部さんは、親しい水産加工場主や女川町のベテラン漁師夫婦と組み、地元の伝統保存食「蒸しホヤ」を新しい味付けで商品化。地元の飲食店や物産展、縁のできた支援ボランティアの協力で東京近郊にも売り込んだ。

ホヤの新商品は数年来、宮城、岩手などの水産加工会社が競って開発し、JR仙台駅など東北の新幹線駅や土産品店、デパ地下の食品売り場に並ぶ。料理店では和食からイタリアンまで品書きが増え、ホヤの新料理を競う屋台イベントに人が集い、殻付きホヤもスーパーの鮮魚コーナーにたくさん出回るようになった。

2017年に開店し、「ホヤの味の伝道者」を任じて多彩な創作料理を広める宮城県塩釜市の「ほやほや屋」(佐藤文行社長)も、県内外にファンを増やしている(2019514日『WTOで韓国に敗訴:禁輸解除が遠のいた宮城県産「ホヤ」の命運』)。

逆境を変える知恵を

「韓国向けに出荷していた頃は、選別が緩くとも飛ぶように売れ、値もどんどん上がった。思えば『バブル』だった。震災後は試行錯誤で苦労しているが、ホヤの国内消費は、震災前の年間約2000トンから、いまは約5000トンに増えている」

と阿部さんは言う。

かつて東北以南ではほとんど名前も味も知られていなかったホヤの需要は、少しずつ広がっている。

「ただそれも、新鮮なホヤが水揚げできてこそだ」

 鮫浦湾では、阿部さんと仲間たちが手塩にかけた最高の“四年子”が丸々と育っている。まさしく海が恵む宝だが、旬は日一日と空しく過ぎる。

 牡鹿半島の海では最近、冬場の漁を支えたタラがめっきり少なくなり、それまで見なかったアンコウなど南の魚が揚がるようになった。

 「貝毒もそうした大きな環境変化の現れだとしたら、ホヤ養殖という生業も終わるかもしれない。そうなれば、新しい漁に転換していくほかなくなる」

と阿部さんは言う。

だが、震災から幾多の苦難に耐えた漁師には、諦めぬ強さ、逆境を変える知恵がある。ホヤを愛する人々の応援もあろう。

「これから海の水温が上がれば、貝毒は収まってくるのか。いまだけの現象なのか、毎年発生するものと覚悟しなくてはならないのか。検査の推移を見守るだけでなく、ホヤを海から水槽に移し、貝毒を抜ける方法を見つけるなど、あらゆる実験もしてみるべきだ。俺たちはここで生きていかねばならない」

 取材した日、鮫浦湾には濃い海霧が立っていた。水温が上がってきた海に冷たいヤマセ(この季節の北東風)が吹き込んで起こす現象で、ベテラン漁師さえ惑わせるという。震災以来、海霧を手探りするようにホヤと生きる人々の視界は、いつ晴れるのか。

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2020年6月20日掲載

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