美智子上皇后は義弟の姉、テレビプロデューサー「大原れいこ」の華麗なる交流

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外交官だった夫と離婚

 TBS入社時の大原れいこは27歳。外交官だった夫と離婚し、経済的独立を考えて倉敷レイヨン社長だった父・総一郎の伝手でこの世界へ足を踏み入れた。

「元外交官夫人がテレビディレクターになったわけです。おじいさまの大原孫三郎さんは岡山の大原財閥を築き上げた立志伝中の人物。上野に西洋美術館のない時代に莫大な予算で美術品を収集し、ピカソ、ルオー、グラック、ミロ、キリコ、ポロック、日本人では青木繁や梅原龍三郎、岸田劉生の作品を擁する美術館を倉敷に作った。白樺派のパトロンでもあり、志賀直哉の支援もされていたんです」

 大原れいこの妹・泰子は上皇后美智子を実姉とする日清製粉の正田修と結婚している。泰子にとっては美智子上皇后が義姉ということになる。「れいこさんにしても、ひょっとしたら妃殿下になっていたかもしれない。大原家はそういう家柄なのです」

 坂元は番組制作のかたわら組合活動にも関わった。組合婦人部の活動家として産休、育休時間の取得や女性正社員公募を求めて経営陣と戦った。大原家の令嬢とは縁の遠い世界だった。「私に比べてとんでもない伝手で入ってきた大原さんはどこまでもお嬢さん。それだけに社内でも目立っていました」

 1967年に勃発したのが、いわゆる「TBS闘争」である。

 看板報道番組「JNNニューススコープ」のメインキャスターは共同通信からTBSに入社してきた田英夫だった。67年10月30日、田は西側メディアとして初めて当時の北ベトナム・ハノイに入る。そこで制作されたのが「ハノイ 田英夫の証言」。容赦ない北爆で絨毯爆撃を仕掛けるアメリカに屈することのない、ハノイ市民の不敵な表情を伝え、クラスター爆弾の非人道性を訴えるとともにアメリカの敗戦を示唆した内容だった。

 当時の自民党幹事長の田中角栄、橋本富美三郎らが今道潤三TBS社長と島津国臣報道局長を永田町に呼びつけ、田の降板を要求する。安保継続を前にしたアメリカへの忖度である。放送の許認可をちらつかせる自民党幹部に屈するかのように局上層部は田の降板と現場の人事異動を断行、配置転換を拒んだ萩元晴彦、村木良彦、それに今野勉ら13人が集団退社し、アルバイトADも含めて25人でテレビマンユニオン設立という事態になる。タレントの萩本欣一や映画監督・伊丹十三も特別メンバーとして参加したこの制作会社に、坂元良江もTBSを退社し、参加する。

 民放一の高給と言われたTBSだが、ベトナム反戦、アメリカ公民権運動など揺れ動く60年代にあって現場社員たちには譲れない大義があった。一連の経緯は萩元晴彦、村木良彦、今野勉の共著『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』(朝日文庫)に詳しいが、「アメリカの良心」と呼ばれたCBSアンカーマンのウォルター・クロンカイトの活躍などでテレビジャーナリズムが確立していたアメリカでは、外部プロダクションによる良質な番組制作が進んでいて、テレビマンユニオンの設立はそれを見越した動きでもあった。

 66年に来日したサルトルとボーヴォワールを取材、TBSの『婦人ニュース』で流したりと、報道部ディレクターとして働いていた大原は、この1年後、71年にテレビマンユニオンに合流する。

「一年遅れで参加の記憶」。これは「テレビマンユニオン35年史」に記された大原の文章のタイトルである。

「テレビマンユニオンには一年遅れで参加しました。何故? 別に迷っていたわけではありません。参加の意思は当初からはっきりお伝えしていましたが、思わぬ事態に突入してしまったからです。(略)当時の私はTBS報道局テレビ報道部に在籍、成田事件以降ただひとつだけ残った三十分の放送ドキュメンタリー番組のスタッフでした。一年前の成田事件の生き残りの身として、毎週の企画会議では企画を出しても出しても通らないという閉塞状態が続いていました。そんな中で十月、やっと一本の企画が決まって取材を始めました。この番組がユニオンの旗揚げに参加できない原因になるとも知らずに……です」

 TBS成田事件とは、TBS闘争のきっかけとなった1968年の成田三里塚闘争、新東京国際空港建設反対集会での出来事である。日々取材に通ううち、取材者は現地の農民と懇意になるものだが、マイクロバスに「空港基地建設絶対反対」と書かれたプラカードを持った農婦を乗せたことが発端だった。それを当局に指弾され、本来中立であるマスコミが取材対象に便宜を図ったというものである。結果、TBSスタッフ8人が処分を受けたが、ディレクターだった大原も譴責処分を受けた。

「当時取材に入っていた番組は、東富士の米軍演習場に命がけで潜入して基地反対闘争を続ける忍野村の母ちゃん達をテーマとするものでした。これが放送日直前に放送中止となって、テレビ報道部の中で、成田闘争の残り火に火がついたのです。当時のテレビ報道部長は、ニューススコープを降板した田英夫さん。編み笠をかぶって砲弾の下に座り込む母ちゃん達の姿はベトコンを髣髴とさせるから……というあの『ハノイの証言』の田部長の発言があったりして部内は騒然。当然、組合が介入しようとしたのですが、テレビ報道部はこれを拒否、あくまで現場として対応する姿勢をとりました。成田事件から展開したTBS闘争の中心的な存在だったテレビ報道部としては組合主導型の闘争に対する猛反発もありました。

 テレビマンユニオン発足の準備が進む11月から年末にかけてテレビ報道部員として連日の激しい動きの渦中にいた私は、この選択がつくまではしばらくTBSを離れない決意をしました。一緒にこの番組を撮影した岩月カメラマンには先に行ってください、といいました。私としては紛争渦中のディレクターが《敵前逃亡》という形をとることだけはなんとしても自分に許せない、というのが、当時の気分でした。
 萩元さんは理解してくれました。翌年、『もういいだろう』と何度目かにいわれて、1年遅れの参加となりました」

 京都に生まれ、若い頃をイギリスで学び、実家は田園調布。結婚してからは青山住まい。

「伴侶となった犬養康彦さんは共同通信の記者で、TBSのコメンテーターをされていました。番組で知り合ったんですね。お互い再婚同士です(犬養の前妻は評論家の犬養〈旧姓・波多野〉智子。従姉の娘が国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子である)。大学は大原さんと同じ学習院で温厚なジェントルマン。フルブライトでアメリカ留学経験もある方でした。夫婦で仲良くゴルフもされて。ご主人のおじいさんは犬養毅。お父さんが法務大臣だった犬養健、お姉さんは作家の犬養道子という具合です。康彦さんは共同通信の社長を退職されており、テレビマンユニオン近くの青山のパン屋さんにサンドイッチを買いに行くとよく一緒になりました。私の連れ合いが亡くなったときも、このたびは本当に大変でしたね、大丈夫ですか? と丁寧にご対応いただきました。康彦さんは共同通信の社長にまでなったんですが、康彦さんが亡くなられてから5年間、大原さんは青山に1人で暮らしていました。クルマ好きでね、どこにでもフォルクスワーゲンでやってきた」

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