竹内由恵が語った“静岡での新婚生活”、“作家の祖父”、そして“これから…”

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祖父は有名小説家

――竹内の母方の祖父は経済小説の大家・清水一行氏(1931~2010)。株取引をテーマにした『小説兜町(しま)』などのベストセラーがあり『動脈列島』(1975)など映画化された作品も複数ある。自分も文章を書いてみたいのでは?

「一応、その気持ちはあって、一人でエッセイとか書いているのですが、あんまり才能がない気がして(笑)。書くことは楽しいんですけれど」

――どんなお祖父さんだった?

「私からすると、厳しい祖父でした。印象深いのは、子供は自分で自分のことを『○×ちゃん』と呼ぶことが珍しくありませんが、私も小さいころに自分のことを『由恵ちゃん』と言ったところ、物凄く怒られたことです(笑)。『自分のことをちゃん付けするとは何事だ』と叱られました」

――その後も厳格?

「はい。高校1年生の時、父親の仕事の都合で両親が海外にいたため、私は祖父母と3人で暮らしていたのですが、門限がとても早かった(笑)。友人たちとディズニーランドに行った時には、私だけが午後5時くらいには家路に着いていました。だから、エレクトリカル・パレードは見られませんでした。おそらく、両親から任せられていたので、責任を持って私を育てようと思ってくれたのでしょう」

――清水氏の素顔は?

「まだ作家として駆け出しのころ、窓の外を眺めていたら、子供が川に落ちたそうです。祖父は『子供が川に落ちたぞー!』と声を張り上げ、自分も救助に向かったと聞きました。その子供は助かり、以来、祖父の作品は売れるようになったそうです。祖父はその話をしてくれた時、『人にいいことをすると、自分に返って来るものなんだよ』と言っていました」

――清水氏の小説はもちろん読んでいる?

「はい。ただ、経済小説が中心であるものの、時には激しい性の描写もあって(笑)。本を書く際には、そのテーマについて物凄く調べていました。資料が山のようにあったことをおぼえています」

――「報道ステーション」のキャスター卒業から、まだ9カ月。今も「報ステ」をつい見てしまうのでは?

「その時間にテレビを見ていれば、チャンネルを合わせますし、スタッフの方たちとは今も連絡を取り合うことがあります」

――会社を辞めた後も会社が忘れられない人は少なくないが、もう頭の中は切り替えられたのだろうか?

「ええ。ありがたいことに、自分のやりたいことは一通りやらせてもらえましたから。ただ、とてもお世話になった会社ですので、もし機会があれば、また一緒にお仕事させていただけたら嬉しいな、とは思っています」

――会社員に戻るつもりはない?

「はい。今の状況に満足していますので」

――テレ朝時代と現在の立場はどう異なるのだろう?

「今になって思うと、会社員の時は誰かが与えてくれた仕事を一生懸命やればいいので、ある種の安心感がありました。今はそれがなく、『自分はこれからの人生をどうして進みたいんだ』などと考える時間が多くなりました。自分がどうするかによって、自分の将来が変わってくるという責任を大きく感じます」

――ただし、それは嫌なことではない?

「はい。こんな人生の歩み方もあるんだと思っています。自分の人生を自分で決めていいので、新鮮です。安心感みたいなものはありませんが、今自分が興味を持って挑戦していることが、この先の人生にどうつながっていくのかというわくわく感のほうが大きいです」

――まだ34歳。これからが竹内の人生の収穫期なのだろう。

■竹内由恵(たけうち・よしえ)
1986年1月20日、東京都生まれ。都内屈指の進学高・東京学芸大学附属高を経て慶應大法学部へ。2006年には「ミス慶應」に選ばれる。08年4月、テレビ朝日に入社。同年から「ミュージックステーション」のサブ司会に。11年には「世界競泳2011」の現地キャスターを務める。13年には「熱闘甲子園」キャスター。15年からは「スーバーJチャンネル」のキャスターを担当し、18年からは「報道ステーション」キャスター。入社と軌を一にしてテレ朝の快進撃が始まった。

聞き手/高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
ライター、エディター。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年6月12日掲載

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