【追悼】「日本は何も学んでいない」大林宣彦と赤川次郎が語り合った「映画」「小説」「戦争」

エンタメ 文芸・マンガ

  • ブックマーク

Advertisement

 4月10日、映画監督の大林宣彦さんが肺がんのため亡くなった。享年82。数々のヒット作を世に残したが、中でも監督の地元・広島県尾道市を舞台に描かれた「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」のいわゆる“尾道3部作”はあまりに有名だ。

 大林監督は、この3部作に続き90年代に入ると、“新・尾道3部作”を発表した。「ふたり」「あした」「あの、夏の日」。1作目の「ふたり」は、赤川次郎氏の同名小説が原作で、事故によって愛する姉を亡くした妹が、死んだはずの姉の“声”に見守られながら成長していく姿を描いたストーリーだ。この映画で主人公・北尾実加役を演じたのは当時18歳の石田ひかり。その好演がブレイクのきっかけとなった。

 昨年10月、その『ふたり』の30年ぶりの続編、『いもうと』が刊行された。北尾実加の11年後を描いた作品である。この刊行に合わせて大林監督と赤川氏は記念対談を行った。映画化以降、親交が続いていたという2人のクリエイターが、小説について、映画について、そして日本の未来について存分に語り合った対談を、追悼の意を込めて再録しよう。

(以下は「小説新潮2019年11月号」より)

あれから30年

大林 「ふたり」の映画の公開は何年でしたっけね?

赤川 1991年です。だから映画の公開からも28年が経ちますね。『いもうと』の企画は編集者から「2019年が『ふたり』刊行から30年ですから、北尾実加のその後を書いてほしい」と言われて書いたものなんです。

大林 今日のために、『いもうと』を何回も読んだんですが、実は腑に落ちないところがいろいろ興味深くあって、これは直接、赤川さんに質問をしようと思ってきたんです。実加が大学に行かず就職を決める冒頭の17歳の最後のシーンで、(お父さんに関するあれこれは)知ってたわ。でも、大丈夫。実加は一人で切り拓いていける、として心の中の千津子に「私は自分で選んだ道を行く」と言ってますが、あれはどういう意味で読めばいいでしょうか? 解釈としては2通りありますよね。ひとつは「お姉ちゃんのことはもう忘れて、私なりにがんばって、ひとりで生きていこう」。もうひとつは「どこまでも私はお姉ちゃんにしっかりついていきます」。どう考えても、奥手で、引っ込み思案であるがゆえに、自分らしい生き方とは何かを見つめてきた実加が、自分からお姉ちゃんと別れるとは言わないはず。

赤川 そうですね。あそこは、父親のお金で生活することから独立したいという気持ちが第一だと思います。千津子を頼ってはいるけど、いつも出てきてくれるとは限らないですから。実際、今回、千津子はそんなに出てこなくて、あまりファンタジーという感じではなくなりました。

大林 なるほど。シリアスなドラマをファンタジーにすることは、ままあることですが、ファンタジーとして完璧に読者に刷り込まれ、映画の虚実の中でその間にある感情を心の真(まこと)として描き切った作品を、今度はシリアスに、日常スケッチとしてドキュメンタリータッチにするのはすごい。しかもさすがだと思ったのは、まずは岸部一徳さんが演じたお父さんの存在ですね。

赤川 情けない感じのお父さんで。

大林 気がつくと、お父さんの札幌の同僚の女が10年後には東京にいて、ああ、二人の関係はまだ続いてたのかと思わされる。あれには妙にこわいリアリティがある。

赤川 僕自身が父親と全然暮らしたことがないので、父親がいなくても生活は変わらないという意識があるんですよね。普通は父親が中心になって生活が動いていくんでしょうけど、僕はまったくそれがなかったので、父親という存在はどこか宙に浮いてるんです。

大林 そうか。『いもうと』は話もドキュメンタリータッチなら、赤川次郎という人の人間ドキュメンタリーでもあるのか(笑)! それは赤川次郎文学を今紐解く上で、とても興味深いですね。

赤川 小説の中では10年しか経っていないのに、実際には30年経ったので、小説にもパソコンだの携帯だのが出てきます。時代はずいぶん進んでしまいました。

大林 あとは、神永智也のことも質問したいんです。

赤川 彼もとても情けないことになってしまいました。

大林 映画「ふたり」では前田哲夫と神永智也をひとりにまとめたんですよ。だからもし『いもうと』を映画化するなら、観客は映画と原作の両方を知っているから、あくまで神永一人でやるか、もう一人の青年を別の役で出すか、どうするのがいいのか、悩みながら読んでおりました。

赤川 うーん、そうですね。書いていて気がついたんですけど、小説では神永智也が千津子に会ったのは第九の演奏会で一回きりなんです。だから千津子について、そんなに記憶が残っていないだろうなと。映画ではずっと登場するので、神永と千津子は付き合っていたような気がしていたんですけど、そうではないことに、『いもうと』を書いていて初めて気がつきました。やっぱり一旦別れてしまうとね。

大林 映画のファンにとっては、雨の中、実加のピアノの発表会に訪れる尾美としのり(神永智也役)が非常に良いんですよね。それから映画版では、ラストに尾道を見降す丘の上で、神永の実加に対する痛切な失恋の告白もある。神永も古里尾道の海とも別れ、そこで映画は終わる。あれは映画化の上の、映画の独創でしたが。申し訳ない。

赤川 あれは良いシーンですね。尾道もあの頃に比べるとずいぶん変わってしまいましたか? 

大林 変わりましたね。僕がハッとしたのは、うちの尾道映画の音もずっとやってくれていた音響デザイナーの林昌平さんが「尾道の音が汚れました。船の音が直接にしか聞こえなくなって、空間の中を跳ね返る音がしなくなりました」と言ったんです。それを聞いたとき、もう尾道で映画は撮れないと思いました。やはり跳ね返りがたくさんあることが、僕が狙うリアリティなんです。

赤川 実は今度の本の書評、中江有里さんにお願いしたんですよ(「波」2019年11月号に掲載)。今はもう作家でもありますが、彼女は「ふたり」が映画デビューなんですね。

大林 たいしたもんですよ、あの娘さんは。

赤川 ロケを見学にいったときは、ちょうど中江有里さんが「お母さんと死ぬんだ」と石田ひかりさんに電話している場面の撮影でした。

大林 そうでした。あのまま「ふたり」からいい女優さんになりました。丁度今僕の新作にもそのご縁で出ているんですよ。

赤川 そうなんですか。今は書評家も脚本家もやってますよね。実は『いもうと』を雑誌で連載しているとき、新潮社の女性の編集者たちが「出てくる男がみんな情けない」って怒っていたそうです。父親も神永智也も、確かにそうかもしれない。実際、今の日本の男の人は情けないなと思うことがあるんです。女性のほうが視野がとても広いですよ。

大林 戦争を知ってる最後の世代の僕からすると、男たちは戦争へ行っても殺されるだけだから年中怯えていましたけど、女たちは決して怯えていなかった。女たちは日常に強いです。日常に強い女と、非日常にしか生きられない男。非常に対照的ですね。戦争中の男社会からは隠されていた家庭内の喜怒哀楽や、不安ながらも穏やかで、生きる活力に溢れた日々のしたたかとも言える暮らしぶり。赤川さんは戦争をご存知ない世代だからこそ、敗戦後の日本の家庭の実態がリアリティを以(も)って書けているのかしら。

切迫感があってこそ

大林 そういう僕からすると、戦争を知っている手塚治虫さんと、戦争を知らない赤川さんとの生きられた時代の差は、おふたりの読者やファンとして非常に興味深いですね。

赤川 手塚さんが20歳になる前ですかね、戦争が終わったのは。

大林 16歳の頃とご自身がおっしゃっていました。あの人は「児童漫画」というジャンルを開発した人なんですよ。「児童漫画」にすることによって、現実の大人の話でやれば皆が馬鹿にする人間の真実である純潔なヒューマニズムを描けた。戦争を知っている手塚さんがそれをやったのがすごいところなんです。

赤川 やっぱりヒューマニズムは根底になきゃいけないものですよね。こんなことあり得ないって言う前に、こうでありたいという姿を書きたいと思うんです。

大林 赤川さんが『東京零年』をお書きになったとき「あ、赤川次郎さんもとうとうここまで来たか」と感銘を受けたんです。

赤川 意外なことでしたが、吉川英治文学賞をいただいたりして。

大林 あれは心ある人ならば、当然、大きな文学賞の受賞の対象にするものですよ。

赤川 大林さんがやられたNHKの「最後の講義」もすごかったですね。若い人たちが熱心に大林さんの話を聞き、感銘を受けているのを見て「何にも考えてないようでも、話せばわかるんだな。真面目に語りかければわかる子はわかるんだ」という気がしました。

大林 とにかく、何かこの現代にはこれまでには無かった切迫感があるぞということは感じてくれています。

赤川 それが大事なことです。

大林 『東京零年』は、この時代への切迫感あればこそ生まれた小説ですね。

赤川 そうですね。書き始めたときはまだ日本もそんな雰囲気ではなくて、未来SFのつもりで書いていたら、現実のほうが追いついてきてしまったんです。

大林 それは傑作を生み出す作家としての資質だと思います。書いてるうちに、現実が追いついてくる。

赤川 本当は追いついてほしくないんですけどね。大林さんの「花筐/HANAGATAMI」(2017)も全編、切迫感が貫いているじゃないですか。2時間49分の間、ずっと圧倒されてしまいました。「花筐/HANAGATAMI」はこれまでの大林作品の記憶がたくさん入っているような気がします。「EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ」(1966)的なところもありますよね。それに、出てくる女性たちが色っぽい。常盤貴子さんたちの踊りの場面は官能的で、最近こんな映画は観たことがないです。

大林 あれはただ踊っているだけでは切迫感が出ないだろうと円型移動車を曳いたんです。

赤川 そういう工夫が観ていて楽しいんですね。

大林 キャメラがぐるっと廻るので、10秒かかるところを5秒で撮れるんです。そういうことが映画の独自のリズムをつくっていった。それに皆さんがびっくりしちゃったわけですよね。

赤川 ああいうのを観たことない人は多いでしょう。

大林 映画は撮影の技と編集でつくるものだという面白さを久々に皆さんが味わったんじゃないかな。

赤川 本当にそうだと思います。決して体調が良くない頃でいらしたと思いますけど、一切妥協をせず、この程度でやめておこうというのがない。そのうえ、次の映画も撮られたんだから本当にすごい。

大林 商業映画デビューした「HOUSE/ハウス」(1977)という映画は、戦争を知らない少女たちを、戦争を知ってるおばあちゃんがぺろぺろ食べちゃうという話です。これは、僕の娘の千茱萸(ちぐみ)さんが鏡を見ながら「鏡に映っている私が、私を食べに来たら怖いよ」と言った。これにピンときたんです。その頃、スピルバーグの「ジョーズ」(1975)の真似で、熊が襲うとか、ネズミが襲うという映画はあったんですが、「鏡の中の自分が自分を食べに来る」というのは、人間のアイデンティティを感じる哲学的な主題だなと思った。それで、戦争中に死んだ少女が生き返っていまここにいたら、どういう生き方をするかやってみようと。やってみると、なるほど商業映画というのは面白いなと思いましたね。シチュエーションさえ変えてホラーにすれば純文学とホラーで同じテーマが描ける。それで商業映画にも手を出していくことにつながりました。それから僕の映画は何も変わってないですよ。結局、戦争を知っている世代が、戦争の影をどう現代に映していくかということ。今僕らの誰もが日常の中で痛切に感じているえもいわれぬこの時代の切迫感、その事実が僕の映画の現実になってきたんです。僕は今そのことに怯えております。

集大成なんてない

赤川 新作が東京国際映画祭で上映されるそうですね?

大林 「海辺の映画館─キネマの玉手箱」(英題「Labyrinth of Cinema」)ですね。その前作の「花筐/HANAGATAMI」がめちゃくちゃ褒められたので揺り戻しがくるぞと少し怖かったんですが、誰に聞いても「今度の作品は映画じゃない、事件だ」と言われます。連続ホーマー、しかも今度のは特大場外ホームランだと受け止められているようです。

赤川 それはすばらしいですね。「花筐/HANAGATAMI」も2時間49分がまったく長く感じられないですからね。

大林 今度のも2時間59分あります。この映画は「アラベスク」というタイトルだったのが、アラベスクはイスラムの文様を指す言葉で、現在のアメリカの政情ではダメなのだということで「ラビリンス」に変更になりました。今は使うと市民の間で暴動になるのだと知って、国によって文化のありよう、受けとめようが違うんだとわかりました。

赤川 それは聞いてみないとわからない、思いもしないことですね。

大林 それに今度の映画はインターミッション(休憩)が入ってるんですよ(笑)。

赤川 最近の映画では珍しいですね。昔は映画がはじまる前に序曲があったり、途中で休憩があったりしましたよね。でも、最近の映画は無駄に長いのが多い。90分で十分な内容の映画が2時間以上あって、削る術を知らないような気がします。

大林 デジタルになって劇物語の編集ができなくなったんですよ。映画は編集でリズムや物語をつくるんですが、デジタルはただ映っているものが並べてあって、基本的に自分に都合のいい所をとるだけですから。

赤川 いくらでもできてしまうというのは、逆に作り手の腕をしばってしまうような気がします。本人が意識してないだけに、逆にタチが悪い。

大林 実はこの歳になってはじめて知ったことがあるんです。山田洋次さんから「大林さんの映画は平気でポン寄り、ポン引きがありますね」って言われたんですね。ポン寄りというのは今撮影している位置や角度を変えずに、同じアングルで一気に寄って撮ること。ポン引きはその逆ですが、言われて初めて、これは本来劇場用の商業映画じゃやっちゃいけないことだと気づきました。お客さんが混乱してしまうからと言うんです。山田さんは「あれはあれでいいですね。大林さんの映画のリズムはこうして出てくるのか」とおっしゃっていました。そのつもりで「男はつらいよ」を観てみると、ポン寄りポン引きは一切ないです。僕のようなフィルム人間でもまだまだ知らないことが多いんですよ。その山田さんから、「大林さんは永遠に進化してる」と言われました(笑)。僕は自分がやったことを含めて、過去は捨てて、同じことは二度とやらない。「これで集大成。おしまい」じゃなく、どこまでも前進していくつもりです。次の映画も、もし映画が初めから色を持っていたら、黒白映画というのはありえなかっただろう、黒白抜きの映画をとったら果していかがなものか。ということで、主人公の少女だけがモノクロで、他が全部カラーなんですよ。

赤川 技術的には難しくないんですか? 

大林 デジタルの良さはそういうことができるところなんですね。

赤川 かつてなら大変な手間ですものね。

大林 僕は映画は「科学文明の発明品」だと思っているので「もう映画は何でもやっちゃったからやることがない」というのは不勉強で、知らない事も含めてまだやってないことのほうがいっぱいあるんです。だから創造するのは面白いのですよ。

赤川 そうですね。集大成なんて、そんな都合のいいものはないと思います。今のCG映画はCGに使われてしまっている。でも「花筐/HANAGATAMI」ではCGを使いこなされていますよね。自分の表現のためにCGを使っていることが伝わってきますし、それでしかできない表現がたくさんあって、他の人にはできないと思いました。

大林 今は便利です、でもだからダメなんです。僕は便利なものよりも、不便なものを選びます。周りにも、便利なものも不便に使えといつも言うんですけどね。この辺は戦争中の子供の感覚であるわけです。

あなたならどうする?

赤川 『ふたり』から30年が経ったわけですけど、この間に日本はとんでもない国になってしまった気がします。もちろん東日本大震災があり、原発の事故がありましたけど、日本人はこんなに反省しない国民だったのかと思って、唖然としてしまいますね。

大林 わかります。唖然とするくらい何にも学んでない。岡本喜八さんが僕に「戊辰戦争まで溯って描かなければ、日本の戦争の歴史は描けません」と言い残してくれました。喜八さんは、「日本のいちばん長い日」(1967)が玉音放送音盤の争奪戦という単にスリルとサスペンス映画に終わってしまったことの後悔と反省から「肉弾」(1968)を自主製作でつくられた。喜八さんは僕を商業映画の東宝に迎え入れてくれた人なんですよ。「自分たちがお客さんのことを考えて一所懸命つくる映画を誰も観てくれず、大林さんがつくる映画がお客さんがこの今求めている映画だとすれば、そこから学んで、また僕たちの伝統の映画をつくればいいじゃないか」と言って迎えてくれた。その喜八さんがお撮りになった「江分利満氏の優雅な生活」(1963)を、僕は敗戦を描いた日本映画の最高傑作だと思っているんですが、全くお客さんが入らなかった。そのことをプロデューサーが喜八さんに伝えると、「映画で残すべきものだから僕は映画にしたんです。観てくれないのは、時代が不勉強すぎます」とおっしゃったそうです。これは赤川さんがおっしゃることにも通じてきます。新藤兼人さんも真面目にドキュメンタリータッチで「第五福竜丸」(1959)をおつくりになったけど、これもお客さんが入らない。そのときの新藤さんの一言はさすがに戦争中を生きてきた人らしく「客が来る来ないのために僕は映画をつくっているんじゃないよ、これは日本の歴史に映画の力で何かを訴えるためにつくったんだ」とおっしゃった。でも、これで新藤さんの「近代映画協会」は解散の危機を迎えてしまいます。ただ、ここからが映画人のすごいところで、ただ潰れるのは癪だからと「裸の島」(1960)を身銭を切って撮った。

赤川 それが大当りになった。

大林 新藤さんはそのおかげで100歳近くの老年になるまで映画を撮ることができたんです。そういう面白い体験を聞いてきた映画人として考えるのは、表現者として、自分に正直に、一所懸命に噓をつかず表現していけば、自分が自分であることができるんだなということです。だから僕が今、世の中に問いかけているのは「あなたならどうする?」ということ。

赤川 今の人は「どうもしない、面倒くさい」っていう感じなんですよね。

大林 それがいけないんですね。今のジャーナリズムは、後追いジャーナリズムで解説をしてるだけです。それはテレビ文化の一つとして、とても役に立つし面白いんですけど、解説する前に「解説者さんよ、あなたはどうするんだい?」と言いたくなる。「あなたの思ってることをしゃべりなさい」と。今、コメンテーターに吉本の人たちが入っていますが、これが意外にいいんです。正直にもの言う人たちだから、噓をつかない。噓をつかなすぎてまわりが困ることもあるようですけど。噓をつくのはいわゆる世にいう常識人だけですね。

赤川 当たり障りのないことを言う人しか使ってくれない。スポンサーが怒りそうなことを言う人は降ろされて、コメンテーターからいなくなってしまう。

大林 先日、山田洋次さんの「男はつらいよ」の新作を試写会で観たんです。そのときに若い人たちが「寅さんって鬱陶しい人ね」「あんなに説教ばかりされたらたまらない」と言っていました。「男はつらいよ」がすごいのは、馬鹿と言われた寅さんが自分の言葉でしゃべることで、図らずも、俗化していく世の中の、これが常識と思っている世の常識人たちがいかに如何わしいかということがわかってくる。あの映画がつくられたのは、そういうことが許された時代なんです。でも今は許されない。山田さんご自身が「もう寅さんが通じない世の中になりましたよ」とおっしゃっています。本当は、今こそ、馬鹿寅の言葉が社会に投げかける人間なるものの大切なありようを考えてほしい時代ですけど、テレビ文化はそうはならない。僕は若い人たちのために映画をつくっていますから、僕の知らない未来をつくる若い人たちのことは何をやろうと許し認めるつもりでいますが、せめて言うなら、自分にだけは正直であってほしい。世の中、今でいう忖度だらけですから。

赤川 忖度なんて言葉、前は使ってなかったと思いますけど、いつの間にか、みんなが知ってる言葉になっちゃいました。

大林 あんな言葉が流行り出すのは、やっぱり日本が政党政治だからです。政党の筋道で動いていく。だから「あなたならどうする?」と聞きたい。で、僕が「ではあんたは?」と問い返されたら「だから俺は映画をつくってるよ」としか答えようがない。

赤川 お説教は嫌だという気持ちはわからなくはないけど、お説教と受け取ってしまうからいけないのであって、先人の知恵として、年上の人はこういうことを経験してきたんだと受け取らないと、人間は進歩しないと思います。

大林 みんながこの今の切迫感の中で、自分がどうすればいいかを考えざるを得ない時代が来てしまっている。誰か一人が核のボタンを押せば敵も味方もなく、人類が滅亡してしまうという時代です。ボタン押すのも人間ならば、それで殺されるのも人間。両方やるから、人間っていうのは不完全で怖いものなんです。赤川さんも自らへの戒めもあってそういうことをテーマにしてらっしゃいますね。

赤川 自分が不完全な人間なので、あまり人のことは言えないという感じですが。

大林 たしなみ深いことばです。でも赤川さんは作品の中で、時々ドキッと怖くなる表現をされることがありますね。それは戦争をご存知ない赤川さんが「人間ってなんだろう? 優しいのか、優しくないのか。いや、みんな優しいはずだ、なのにどうしてこんなことになってしまうんだろう」と疑問に思って、人間の不可思議さ、世にいういわゆるエグイ物語も書いてらっしゃるからですね。

赤川 そうですね。南京であんなに酷いことをした日本兵も、家に帰ればいいお父さんで、いい夫なんだろうと思います。でも、それを戦争のせいだとしてしまうと、免責されてしまうような気がするんですね。やはり個人の問題なんだと思います。

大林 その通りです。「東京ビデオフェスティバル」というビデオコンクールの中学生の作品に、「あなたは戦争で敵を殺せますか?」とクラス全員にインタビューして廻る作品があって、8割が殺せると答える。質問を変えて「あなたは戦争で人を殺せますか?」と聞くと答えが逆転して8割がいいえと答える。人は殺せないけど敵なら殺せる。僕たちの戦争も敵は人じゃなかった。

赤川 鬼畜米英ですからね。

大林 結局時の権力者のその折おりの都合なんです。

赤川 ヨーロッパに住む知人から聞いた話ですが、イスラムの国からドイツに移ってきた友達一家の元へ、イスラムの国からその友達の親戚の女の子が泊まりに来ることになった。ドイツにいる家族はあまり信仰に熱心ではなく、その女の子の家族は熱心なので、家族同士はあまり仲良くない。それで、その女の子が泊まりに来ていきなり、「あなた、しっぽがないのね」とドイツの友達家族に言ったそうなんです。親から「あの家は信仰をしていない悪魔だからしっぽがあるんだ」と言われて育ったらしいんですね。それを女の子は信じていた。スマホもあれば、パソコンもある時代に、本気で親戚が悪魔でしっぽがあると信じていたのはすごいことだなと驚きました。小さいころから教えられているというのは怖いですよ。

大林 人間は愚かでその澱(おり)が溜(たま)って誤解し合い、「風評」を生む。「風評を信ずるは、犯罪」です。

未来へ、小説家と映画作家が思うこと

大林 歴史に「もし」はないけれど、信長が天下をとっていたら、日本はずいぶん違う国になったんじゃないかと思います。「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」という戯れ歌がありますが、徳川家康の優柔不断が、今も日本に流れていて、平和も戦争も付和雷同にということに繋がってくる。それがいいかどうかは歴史が証明するので今の僕には言えません。優雅で余裕のあった時代には、試行錯誤や思考実験も許されて、平和とはなんだ、戦争とはなんだということも考えることができましたけど、今はそんな時代じゃない。最近、僕は酷(ひど)い事件に巻き込まれました。事件の名は「冤罪(えんざい)」。僕の事を原発推進者だと言いふるまう人物がいて、実名入りでそう言われるなら「確たる証拠を示せよ」でしょう? 1990年代の終わりから、原子力発電に関するCMに関わっていたことがあります。僕は広島生まれだし、原発を当然推進するわけないから、原発推進とも原発が安全だとも一度も決して言わなかった。「原子力発電は危険なものです」と署名入りで始めたのです。このCM出演が変な風評につながって、あれだけ懸命に原爆反対をテーマにつくった「この空の花――長岡花火物語」(2012)という映画でさえ、大林は原爆推進者であると批判がでたり、そのころ核のゴミを里の地面に捨てた六ヶ所村から、国家予算で作る小冊子に連載をしてくれと言われたりする。もちろん、それは冗談じゃないと断りました。人間は本当に当てになりません。そういう人間の可愛さと怖ろしさに対してできることは、自分に正直、一所懸命、噓をつかず、自分が自分として生きるだけです。僕が原発のCMをやっていたとき、こういうCMには必ず批難の手紙が来るようですが、ただの一通も来なかったそうです。ということは、力なき庶民の皆さんは、僕のやっていることを信じてくださっていたんだなと思います。今、僕が表現者として問いたいことはただひとつ。「あなたならどうする?」。これが僕のテーマであり、戦争を知る僕の責務だと考えております。

赤川 僕はあまりに思いやりのない時代になっちゃったなと思いますね。相手の身になって考えるということができなくなってしまった。自分が相手だったらどう思うか、こんなことを言われたらどう感じるか、考える想像力が欠けてしまった。そういうことを学んでもらうのは僕たち小説家の仕事だと思います。

 イギリスに住んでいるブレイディみかこさんという日本人の保育士をしている方がいます。息子さんがイギリスの普通の中学に通っていて、その社会科みたいな授業のテストでエンパシーとは何か説明せよという問題が出たそうです。エンパシーとは、「相手の身になる」ということらしいんですが、みかこさんが「何て書いたの?」と聞いたら息子さんは「誰かの靴を履いてみること」と言ったそうです。「誰かの靴を履いてみる」というのはイギリスの言い回しだそうで、「相手の立場にたってみる」ということ。いい言葉だなと思いました。誰かの靴を履いてみることで、はじめてその人の立場がわかる。靴には合う合わないがあって、窮屈かもしれない。シンパシーという言葉もありますが、シンパシーは共感とか同情することで、エンパシーは立場を共有すること。そういうことを中学1年生くらいで教えてくれるのはとてもいいですよね。なかなか日本でそういう教育はしていません。

 日本ではこれから教科書から小説が消えていきます。小説のかわりに、契約書とか使用説明書を読み解く力を教えるそうです。それでは、ますます他人の立場にたって、他人の痛みを自分の痛みとして感じる想像力を育てることが難しくなってしまう。小説家でも映画監督でも「人間ならこうじゃなきゃいけない」という大切さを、お説教ではなく伝えていくのが大事かなと思っていますし、そういうことが伝わるものをこれからも書いていきたいと思っています。最近のミステリーの世界では、理由のない大量殺人が登場することが多くて、それはとっても嫌なんです。人を殺すなら、無理もないと思わせるだけの動機があってほしい。今風ではないかもしれないけど、古くさくなることを怖れずに書いていきたいなと思っています。大林さんのように、これまでの映画の常識を覆していくような冒険はなかなかできませんけれども。次の作品も楽しみにしております。まだまだ何十年も頑張っていただかないと。新藤兼人さんのお歳まで、あと20年もありますから。

(以上、「小説新潮」2019年11月号より)

 赤川氏に改めてお寄せ頂いた追悼の言葉を最後にご紹介しよう。

「『ふたり』の撮影を見に行った尾道で、大林さんがいかに故郷の人々に愛されているかを知って感動しました。あれから30年。最後の映画作りに尾道へ帰ってきたのは、ご自身の戦争の記憶と向き合うためでしょう。最後まで全力投球で投げ切った、みごとな一生でした。
“二度と戦争をしない”という大林さんの願いを、私や、後の世代が受け継いでいかなくてはならないと思います」

大林宣彦(おおばやし・のぶひこ)
1938年広島県尾道市生れ。自主製作映画を経て、TVCM創世期に2千本以上のCMを制作。77年、「HOUSE/ハウス」で商業映画に進出すると、「転校生」にはじまる“尾道3部作”が人気を獲得、「青春デンデケデケデケ」「野のなななのか」などで多くの映画賞を受賞。2017年、余命宣告を受けながら完成させた「花筐/HANAGATAMI」は高い評価を得た。2020年4月10日没。

赤川次郎(あかがわ・じろう)
1948年福岡県生れ。76年、「幽霊列車」でオール讀物推理小説新人賞を受賞。「三毛猫ホームズ」シリーズなどユーモア・ミステリーの他、サスペンス小説、恋愛小説まで幅広く活躍。2005年、日本ミステリー文学大賞、16年、『東京零年』で吉川英治文学賞を受賞。『セーラー服と機関銃』『ふたり』『月光の誘惑』『7番街の殺人』など、刊行された著作は600冊を超える。

デイリー新潮編集部編集

2020年5月28日掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。