明治38年、早大野球部が初の米国遠征で持ち帰った“野球技術”とは

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にっぽん野球事始――清水一利(15)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第15回目だ。

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 日露戦争中の1905(明治38)年に行われた、日本のスポーツ史に燦然と輝く早稲田の第1回アメリカ遠征は、26戦して7勝19敗という大敗に終わった。実力的には本場アメリカの野球チームにまだまだ力が及ばないことをはっきりと見せつけられる結果となった。

 しかし、このアメリカ遠征が早稲田のみならず日本野球の発展に大きく貢献したことは疑う余地もない。戦術や練習法などのノウハウはもちろん、野球用具や応援法などアメリカの近代野球術の多くを日本に持ち帰ってきたからである。

 しかも、「日本野球の父」と呼ばれ、早稲田の初代野球部長である安部磯雄という人が偉かったのはアメリカで体験してきた野球術を早稲田だけのものとはせず、日本野球界の発展のためにさまざまな形で広く公開し、その普及に努めたということだ。

 例えば、選手として遠征に参加した橋戸信は安部の意を受け、1905(明治38)年、野球技術書「最近野球術」を執筆した。それは技術面や精神面などアメリカで学んだこと、見聞きしたことのすべてが記された、従来の野球書とはまったく異なる内容の本だった。これにより多くの野球人が新たな知識を身につけることができたのである。

 さらに、安部は請われれば野球部の選手たちをコーチとしてどこへでも喜んで派遣し、アメリカで体得した技術を余すところなく伝えた。そうすることにより、日本球界全体が発展することを何よりも望んでいたからである。

 戦争中の海外遠征を許可した大隈重信もそうだったが、体得した技や術を惜しげもなく公開した、それまでの日本人観では考えられない安部の斬新な考え方も特筆すべきものだろう。「進取の精神」に富んだ2人の偉大な人物のおかげで、日本球界初の海外遠征は大成功を収め、その後の野球の発展に大きく寄与することになったのである。

 では、早稲田大学野球部はアメリカ遠征で実際に、どんなことを学んできたのだろうか?
 まず第一に挙げられるのがピッチャーのワインドアップだ。当時、日本の選手も観客もこれをまったく知らなかった。そのため、帰国後、早稲田の投手がワインドアップ、すなわち大きく振りかぶっての投法を披露すると、相手チームの選手も観客も驚きの声を挙げたという話が今も伝わっている。

 また、当時バントはブントと呼ばれ、以前から行われていたが、いわば、日本式の自己流の方法でやっていたにすぎなかった。早稲田が日本に持ち帰ったのは正しいバントのやり方であり、それまで日本では誰も考えが及ばなかったスクイズも、アメリカ遠征の大きな土産ともいえる新たな戦術だった。早稲田の帰国後、各チームに広まり、ごく普通の戦術として採り入れられるようになった。

 さらに、早稲田はもちろん、他のチームの選手たちが参考にしたのが遊撃手の動き方である。それまでは1塁ランナーの盗塁を2塁で刺す場合、つねに2塁手がベースに入っていたが、状況によっては遊撃手がプレーに参加することがあったり、ランナーが2塁にいる場合、ベース上でランナーを牽制するのが当たり前だった2塁手に代わって、遊撃手がランナーを牽制したりという守備の戦法を学んできた。これによって日本の野球はより近代的に、スピーディーになったのだ。

 余談だが、遊撃手は英語でショートストップ。ショートには「俊敏」という意味もあるという。早稲田が初のアメリカ遠征で学んできたのは、まさしくこの俊敏さだったのである。

 早稲田の海外遠征は当時の大学野球部に大きな影響を与えた。その中でも強烈な刺激を受けたのが他ならぬライバルの慶應である。アメリカ帰りの早稲田に目の前で本場仕込みの技術や考え方をまざまざと見せつけられ、おそらく海外遠征の重要性を痛感したに違いない。

 そこで、慶應は早稲田から遅れること3年、1908(明治41)年6月から9月にかけて、創部以来初めての海外遠征となるハワイ遠征を行った。

 遠征に参加した選手はわずか11人。この少人数で海を渡り、3カ月間に14試合を行うという厳しい状況下での遠征だったが、7勝7敗というまずまずの成績を収めた。そしてその後、1911(明治44)年にはアメリカ本土に乗り込み、22勝13敗2分で勝ち越す好成績を残して帰国している。

 一方の早稲田も慶応がアメリカ本土に遠征した同じ年に第2回のアメリカ遠征を挙行、さらにその翌年の1912(明治45)年にはフィリピン遠征を行うなど、この時期、両校の目は海外に向けられた。両校がこの間に海外で培い、全国に広げていったさまざまな野球知識が日本の野球を大きく進化させていったことは間違いないだろう。

【つづく】

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年5月23日掲載

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