いつも通りだった昭恵さん(古市憲寿)

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 久しぶりに安倍昭恵さんがニュースになっていた。東京都が花見自粛を求める中、有名人たちと私的「桜を見る会」を開催していたというのだ。確かに記事の写真を見る限り、艶やかな桜を背景に、笑顔の男女が並んでいる。

「こんな時に自由すぎる」「立場をわきまえろ」といった批判が殺到したのだが、僕は少しほっとしてしまった。なぜなら「こんな時」にも昭恵さんがいつも通りだったからだ。

 マーセル・セローの『極北』(中公文庫)という小説にこんな一節がある。「まわりのすべてが崩壊してしまったとき、人をまっすぐ立たせておいてくれるのは、決まった習慣だ」。

 村上春樹さんが翻訳したことでも話題を集めた物語だが、舞台は近未来の極北地域。文明から離れた荒廃した街で主人公は暮らしている。しかし「絶望に呑み込まれてしまう」のを避けるため、無駄とも思える日々の習慣を大切にしているというのだ。

 現代人の日常も習慣の積み重ねで成立している。電車での通勤や会社での雑務や同僚への悪口。しかし有事においては、習慣が成立しない。当たり前だったことが非常識になり、奇妙だと思われていたことが推奨されるようになる。

 以前から僕は、キスは唾液の交換なので避けたい、現金は汚いから使いたくないなどと発言してきた。誰かと握手をした時はアルコール消毒をするようにしていたし、トイレのドアノブを触らないように腐心してきた。ネットニュースになるくらい奇矯とされた行動は、すっかり常識になってしまった。

 そんなご時世である。

 にもかかわらず、昭恵さんはいつも通りだった。何か目立つ行動をする、メディアやSNSで大バッシングが起こる、夫が国会で釈明をするという一連の流れまで完全にいつもと一緒。もはや伝統芸能のような雰囲気さえある。

 当たり前が壊れていく時代には、そんなベタでお決まりの出来事が一服の清涼剤になる。ちなみに首相答弁によれば、昭恵さんはいわゆる「お花見」をしたわけではなく、桜の木が植えられたレストランで食事会をしただけのようだ。写真が撮影された時点では夜間の外出自粛も呼びかけられていなかった。

 その意味で、経済を回すことに貢献していたとも言える。バランスの見極めは難しいが、疫病が人を殺すように、不況も人を殺す。結果的にどんな行動が正解だったのかは、未来人にしかわからない。

 ちなみに僕がこの文章を書いてから雑誌(「週刊新潮」)が発売されるまでに約10日ある。たった10日後のことも予測しにくい時代になってしまった。コロナ対策に「お肉券」や「お魚券」なんて、どんなSF作家も思いつけなかったはずだ。だけど願うのは、10日後も軽率と見える誰かの行動を笑う余裕が社会にあって欲しいということ。たとえ疫病予防という大義名分があっても、過剰に誰かの不謹慎を責め立てる社会は息苦しい。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2020年4月16日号掲載

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