東日本大震災から9年 ついに全面復旧した常磐線を愛した文士たち

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 3月14日、鉄道各社のダイヤが改正された。今春のダイヤ改正では、約半世紀ぶりに山手線に新駅「高輪ゲートウェイ駅」が開業したほか、東日本大震災で被災した常磐線が全線復旧を果たした。

 常磐線は東京都の日暮里駅と宮城県の岩沼駅とを結ぶ路線だが、実質的には上野駅−仙台駅間をつないでいる。

 同じく、上野駅と仙台駅を結ぶ路線には東北本線がある。東北本線と常磐線は、ともに日本鉄道という私鉄によって建設された。

 大宮駅・宇都宮駅・郡山駅・福島駅といった人口の多い都市が点在する東北本線に対して、常磐線は人口の少ない地域を走る。常磐炭田・日立鉱山で採掘された石炭を迅速に輸送することに主眼が置かれていた。つまり、旅客よりも貨物を期待された路線だった。

 東北本線が表舞台で活躍するスター俳優だとすれば、さしずめ常磐線は舞台裏で公演を支えるスタッフ。同じ上野駅―仙台駅を結ぶ両路線は、実に対照的な役割を課されていた。

 日のあたる機会が少ない常磐線だが、不思議なことに文士たちから愛される路線だった。そのため、明治から昭和の戦前期にかけて、自身の描く楽園を求めて、思索に耽り創作活動に打ち込む文士たちが常磐線沿線に多く移り住む。

 常磐線の沿線に真っ先に目をつけたのは、日本近代美術の父とも呼ばれる岡倉天心だ。岡倉はお雇い外国人として来日したアーネスト・フェノロサの助手を務め、フェノロサに感化された。当時、世界の潮流は西洋美術を評価する向きが強く、日本・中国といった東洋美術は評価が低かった。

 そうした世界の評価を覆すべく、岡倉は日本美術界の実力を世界に認めさせようと奔走。自身は芸術家ではないために作品を手掛けることはなかった岡倉だが、日本美術界を振興させるために活発な評論活動を展開。英語力にも長けていた岡倉は、海外にも日本美術を発信した。

 世界への発信に精力を注ぎ込む一方で、日本美術界の人材育成にも取り組む。1889年に東京美術学校(現・東京藝術大学)を開校し、岡倉は初代校長に就任。岡倉が夢見た日本美術界の発展は、順調に進んでいた。

 しかし、1898年に女性問題を起こし、引責辞任。美術学校を追われた岡倉は、日暮里駅から近い谷中に日本美術院を創設した。谷中には、岡倉を慕っていた横山大観なども付き従った。

 岡倉が谷中に日本美術院を創設した当時、まだ常磐線の日暮里駅は存在しない。しかし、1905年に常磐線が全通すると、その翌年に岡倉は茨城県北茨城市の五浦海岸へと活動拠点を移した。

 横浜生まれの岡倉は、茨城県の寒村だった五浦とはまったく無縁。それにもかかわらず、岡倉が五浦に着目したのは、多賀郡大塚村(現・北茨城市)出身で後に日本画家として大成する飛田周山の案内によるものだった。

 岡倉が五浦に拠点を移すと、日本美術院創設の際にも付き従った横山大観をはじめ菱田春草、木村武山、下村観山といった門下生も五浦へ居を移した。茨城の寒村でしかなかった五浦は、こうして日本美術界の至宝が集まる地へと変貌する。

 五浦は東京から遠く離れた地だったが、1897年には常磐線の関本(現・大津港)駅が開業していたこともあり、交通の便はさほど悪くなかった。駅から五浦海岸までは未舗装の道を30分ほど歩かなければならなかったが、岡倉や門下生にとって五浦は俗世間から隔絶された、創作活動に集中できる別天地だった。

 大正期に入ると、新たなグループが常磐線沿線の我孫子駅一帯に注目する。その新たなグループとは、文芸同人誌『白樺』を創刊した武者小路実篤・志賀直哉を擁する白樺派と呼ばれる文芸家だった。

 白樺派の面々が常磐線の我孫子駅に着目したのは、教育者だった嘉納治五郎の影響だった。嘉納は千葉県我孫子町(現・我孫子市)に別宅を構え、農園を経営するかたわら後進の育成にもあたった。嘉納の甥にあたる柳宗悦は、そうした縁から我孫子の手賀沼湖畔に転居した。

 常磐線に乗れば我孫子と東京は、さほど遠くない。そして、手賀沼は常磐線の我孫子駅から徒歩10分ほどの距離にある。東京から至近の我孫子は、世間の喧騒から逃れられる地だった。我孫子は、文士が思索に耽ることができる好環境が揃っていた。

 柳から強い誘いを受けた志賀直哉・武者小路実篤も我孫子へと転居してくる。こうして、農村然としていた我孫子はたちまち文士たちが集まるようになった。当時、知識人たる文士が集まるという惹句は、世間を動かすには十分な謳い文句になり、我孫子は文士たちのほかにも、富裕層が別荘地を構えるリゾート地として脚光を浴びるようになっていく。

 別荘地としての名声を高めた我孫子は、いつの頃からか北の鎌倉と称されるようになる。ジャーナリスト・杉村楚人冠も我孫子に別荘を購入し、関東大震災後は我孫子へと移り住む。東京朝日新聞社を退社し、作家活動に入っていた杉村は我孫子で意欲的に創作活動に打ち込んだ。

 戦前まで文士に愛された常磐線は、戦後に様相を一変させる。戦災から立ち直った日本は、そのまま高度経済成長へと突入。東京は過密化し、その受け皿として千葉・埼玉に次々とニュータウンが建設された。常磐線沿線も東京の過密化の影響を大きく受けることになり、松戸・柏といった東京に近い都市では宅地造成が盛んに進められ、それに伴って人口は急増していく。

 しかし、別荘地としてにぎわった我孫子はベッドタウン化の波から取り残された。発展から取り残された我孫子町は、その挽回策として手賀沼に東京五輪のボート競技会場を誘致する運動を展開。誘致は成功せず競技会場が戸田に決まると、今度はディズニーランドの誘致に乗り出した。

 千葉県や財界からの協力も得られたため、手賀沼湖畔にディズニーランドを建設する計画は、実現まであと一歩のところまで迫った。それを如実に示すのが、我孫子市が発行した『広報あびこ』昭和36年1月号だ。そこには、“手賀沼ディズニーランド”の詳細図が掲載されている。我孫子市が“手賀沼ディズニーランド”に寄せた期待の大きさが感じられるが、“手賀沼ディズニーランド”は実現することなく、幻に終わった。

 常磐線沿線の経済を牽引していた常磐炭田や日立鉱山も昭和30年代から衰退の兆候が出ていた。それに替わる経済活性化策として、常磐線沿線の自治体は原発の誘致に一縷の望みを託した。地元自治体の望みは実を結んだが、その希望は東日本大震災によって打ち砕かれる。

 東日本大震災によって原発という希望の灯が消えた一方で、以前のように常磐線の沿線に文士が集まる兆しが出てきている。

 芥川賞作家の柳美里は、東日本大震災を機に東北地方へと頻繁に足を運ぶようになった。その縁から臨時災害放送局「南相馬ひばりFM」でも番組を担当するようになり、2017年には南相馬市へと転居した。

 翌年、柳は自身の小説のタイトルと同名の書店「フルハウス」をオープンさせる。自宅兼店舗の裏手にはイベントスペースも整備され、柳が主宰する劇団の公演もここでおこなわれている。

 常磐線は社会に目まぐるしく翻弄されてきた。東日本大震災による地震で全線が損壊し、大半の区間は津波で流出した。その後も、原発事故によって、沿線民は故郷を追われた。駅前から人はいなくなり、街は荒廃した。

 このほど常磐線がようやく全線復旧を果たし、新たなスタートを切る。上野・品川駅~仙台駅間を結ぶ常磐線特急「ひたち」の運行も始まり、沿線にも多く企業が進出するだろう。経済の活性化や観光客の増加も見込まれる。地元の期待は膨らむ。

 常磐線は甦った。次は沿線の復興に焦点が移る。街の活性化も気になるところだが、以前のように常磐線の沿線に文士が集う別天地は生まれるだろうか?

小川裕夫/フリーランスライター

週刊新潮WEB取材班編集

2020年3月21日掲載

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