「新型コロナウイルスは痛快」 朝日新聞編集委員の問われるスタンス

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 新型コロナウイルスを巡っては様々な意見や説がメディア、ネット上で述べられている。専門家によって言うことは異なるし、デマが多いことには政府も注意を促している。
 そんな中で、大新聞の編集委員の不用意なツイートが大きな注目を集めた。

「あっという間に世界中を席巻し、戦争でもないのに超大国の大統領が恐れ慄く。新コロナウイルスは、ある意味で痛快な存在かもしれない。」(3月13日)

 このツイートをしたのは、朝日新聞の小滝ちひろ編集委員。朝日新聞のデータベースで調べた限り、ほとんどの署名記事が仏教、美術、歴史関連のもので、さほど政治色の強いテーマを得意としている人物には見えない。

 名前が出てくる最新の記事のタイトルこそ「不快な思い招く表現、おわびします 朝日新聞社編集委員、不適切なツイートとアカウント削除」(2020.03.15 東京朝刊)という当人が主人公のものだが、それ以前は「法隆寺の壁画」とか「仏像鑑賞のポイント」という類のいたって平和な内容のものが並ぶ。

 タイミングから見て、超大国の大統領とは、トランプ米大統領のことなのだろう。そしてトランプ大統領のことが嫌いな人にとって、「恐れ慄く」様はもしかすると「痛快」に感じられたのかもしれない。しかしながら、多くの死者、重症者を出して、経済的なダメージも深刻な状況について、「ある意味で痛快」というのは軽率の誹りをまぬかれないところだろう。朝日新聞は、この件について前出の記事の中でこう弁明をしている。

「(小滝氏の)専門的な情報発信を担う『ソーシャルメディア記者』の資格を取り消しました。説明やおわびをしないまま、本人が独断でアカウントを削除したことも不適切でした。深くおわび申し上げます(略)
本社の記者ツイッターは記者個人の責任で発信していますが、こうした事態を招いたことについて、あらためておわびいたします。記者研修の強化などを通じ、ソーシャルメディアの適切な利用を進めます」

 せっかく迅速におわびをしたのだが、残念なことに同時期には、同社の花形記者だったジャーナリストのツイートも波紋を呼んでいた。2013年度に新聞協会賞を受賞したこともある鮫島浩氏の次のツイートである。

「安倍首相や政府高官は自らのコロナ感染をさほど恐れていないのではないか。彼ら上級国民はいざとなれば数に限りがある人工呼吸器を優先的に回され手厚い治療を受けられるので命を失うことはないからだ。政策の失敗によるコロナ蔓延・医療崩壊の犠牲になるのは一般国民だ。これは格差問題なのである」(3月15日)

 このツイートが批判されているのは、きちんとした根拠が示されていないからだろう。国際政治学者の細谷雄一氏は、その問題点を端的にこうツイッターで指摘している。

「こちらの朝日新聞出身のジャーナリストの方、『上級国民はいざとなれば数に限りがある人工呼吸器を優先的に回され手厚い治療を受けられる』ということについて、きちんと記者として病院で取材して、裏をとっているのでしょうか? それは真剣で公平な治療をしている病院の方々への侮辱では?」

 二つのツイートに共通するのは、政権トップ、あるいは権力への漠然とした不信感のようなものだろう。戦争ではなくても、自国民が犠牲になり、経済が打撃を受け、なおかつ有効な対策が不明であれば、指導者であろうが一般国民であろうが「恐れ慄く」のは人間として自然な反応だろう。それが「痛快」というのは、どこかで「超大国の指導者」への何らかの偏見があると見られても仕方がない。

 また「上級国民」云々も、「安倍総理やその周辺は国民を見捨てて自分たちだけ助かる気満々なのだ」という前提があるからこそ、さほどの根拠なく発せられる言葉だといえる。もちろんその可能性が無いという証明はできないが、細谷氏が指摘するように、主張するのならば何らかの裏付けは求められるところだろう。

 それにしても、なぜこのように長いキャリアを誇る記者、ジャーナリストが安易なツイートをするのか。そこには政府批判を絶対的な前提とする姿勢がないだろうか。
 ニッポン放送アナウンサーで人気番組「飯田浩司のOK!Cozy up!」(月~金・朝6時~)のパーソナリティである飯田浩司氏は、著書『「反権力」は正義ですか』の中で、そうした姿勢についてこう述べている。

「例えば、『マスコミの使命は権力と戦うことだ』という意見をよく聞きます。実際にニュース番組をやっているとそうした趣旨で諭(さと)されることもあります。

 なるほど、国が進むべき道を誤りそうなとき、マスコミが警鐘を鳴らすべきだという意味では完全に同意します。ならば、報道に携わる人間は政策についてよく学び、国民への影響、メリット・デメリットを是々非々で評価すべきなのではないでしょうか。

 ところが、マスコミの中では多くの場合、「是々非々=権力寄り」と評価されてしまいます。実際に私個人や番組も、少しでも政権について肯定的な考え方を伝えると、そうした評価をされてきました。なぜ是々非々が迎合なのでしょうか?

 私は逆に聞きたくなるのです。

 マスコミが考えるところの“国の進むべき道”とは、『権力の逆方向』に固定されているのでしょうか? 権力A(例えば政権)がBに変わったら、マスコミもそれに合わせて『権力Bの逆方向』へと主張を変えるのでしょうか? と。権力が交代した瞬間に、マスコミの主張が大きく転換してしまうような変節を良しとするのでしょうか? そんなマスコミが建前で考えたような『反権力』がいつも正しいことのように伝えられる――それっておかしくないですか?

『マスコミの使命は権力と戦うことだ』という言葉は本来、民主主義を守るために必要な倫理観によって調査報道を行うジャーナリズムの精神を体現したものと、私は理解しています。ところが、それがいつの間にか「権力と戦う自分たちの物語」にすり替わっているように見えてなりません。私は、この『権力と戦う』という言葉が本来の精神を失ってそれ自体が目的化し、マスコミ報道から“是々非々”という姿勢を奪い、自らを闘士に据えた陶酔の物語に引きずり込んでいるようにも見えてしまうのです。周りから見れば、もはやマスコミは特別な存在ではないのに。

 一般の視聴者がSNSなどを通じて、時には専門家も交えながら活発に政策論を交わすこの時代にあって、遠い目をしながら『マスコミの使命は権力と戦うもの……なんだよね……』と具体性なく言われると、気恥ずかしさすら覚えてしまいます」

 改めて飯田氏に、現在の状況を踏まえて考えを聞いてみた。

「必要ならば当然、政府への批判をすべきだと思います。私も番組で、新型コロナウイルスによる経済への悪影響を見据えて、早急に大規模な対策が必要だということ、そこへの政府の危機感が足りないのではないか、といったことも指摘しています。

 私が再三経済について話し、書いているのは『経済が人を殺す』おそれがある上に、それが一見すると見えづらいからです。

 今回はウイルスが問題になっています。高齢者や既往症をお持ちの方にとっては特に、直接生命にかかわる問題です。

 報道にかかわる者は、自分たちを物語の主人公に据えた『権力と戦う私たち』に酔うのではなく、国民、すなわち読者、視聴者、聴取者の生活を豊かにするために報道をする、というあるべき姿勢を忘れてはならないと考えています。そのためにマスコミが提供すべきは、受け手が『考えるための材料』です。つまり『根拠を示す』報道、『一次情報を必要以上に加工しない』報道、『誰の主張かクリアな』報道……一言で言えば、『透明性の高い報道』です。いま読者や視聴者は、記事本文とかけ離れた見出しを書く新聞や、演出過剰なVTRを流すテレビの手法よりも、ファクトをもとに自分たちでニュースを考えることを望んでいると思います」

 ウイルス自体には何の政治性も思想も思惑もない。それだけに医学的、科学的見地に立ったうえで社会にとっての最適解を求める姿勢がメディアにも求められるのではないか。

デイリー新潮編集部

2020年3月19日掲載

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