追悼「野村克也さん」貧困の先に見据えた夢 週刊新潮の未掲載インタビューから

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 2月11日、プロ野球選手として戦後初の三冠王、指導者としては5度のリーグ優勝、3度の日本一を成し遂げた野村克也氏が84歳で急逝した。

 週刊新潮では、2017年に「激白『野村克也』がダメ巨人を再生工場送りにした」というタイトルで独占インタビューを掲載。“ボヤキのノムさん”の愛称の通り、当時の巨人軍や球界について大いにボヤいていただいた。

 だが、誌面の都合上、泣く泣くカットせざるをえなかった部分も多かった。今回、哀悼の気持ちを込めて、そのインタビューの未掲載トークをお届けする。まずは偉大なる「野球人・野村克也」前夜のお話しから。

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 最近になると思うのは昔のことばかりでね。俺が2歳の時に、オヤジが日中戦争で戦死したんですよ。明治生まれの人間には珍しく大恋愛の末に結ばれた夫婦だったらしいんですがね。俺、オヤジの顔を全然知らないから、思い浮かぶのは苦労する母親の姿ばかりで。

 片親だから、とにかく貧困家庭でね。もうその貧乏が嫌で嫌で……。大人になったら絶対に金持ちになってやる。そんな意志が成長するごとに強くなっていった。

 中学生の頃、まず目が向いたのは、美空ひばりさんだった。俺の2つ年下の彼女が、12歳で電撃的にデビューしたのに影響されて、「よし俺も歌手になろう」と音楽部に入ったの。

 だけど、ドレミファソラシドの後半部分の高い音が出ない。そしたら同級生に、「いっぺん、声つぶしてみぃ。いい声なるぞ」って言われたんです。それで学校の帰り、日本海に行って、うわーって叫んだんだけど、母親に「あんた、声どないしたん? 風邪ひいたん?」て心配されたくらいでね。フフフ。これは無駄な努力でしたね。そもそも、歌がどうしても好きになれんくてね、歌手の夢はあきらめました。

 次に目が向いたのは映画。テレビのない時代ですから、田舎の小さな映画館でも、いっつも満員。映画館の館長さんが知り合いだったから、毎回タダで入れくれてね、毎日のように映画見ましたよ。それで、主役の人の演技とセリフ覚えて、真似して、役者になるために練習しました。だけどね、ある日ふと鏡で自分の顔を見て、「あ、この顔じゃ無理やな」って気がついた。それで役者の夢もあきらめて。そうしたら金持ちになる道は、野球しかなかった。

〈意外な中学時代の夢。後にヤクルト監督時代にCDデビューを果たしているが、もし学生時代にその美声が評価されていたら、今の球界はどうなっていただろうか。とにかくノムさんにとって野球は、貧困から脱却するための手段だった。〉

 野球はミットとかグローブとかお金がかかるじゃん。そんなもの買ってくれって母親に言えない。だから、野球部の集合写真、俺だけランニングシャツよ。試合に行く時は、下級生の補欠の子のユニフォーム借りてね……。高校すら行くのも怪しい家庭環境だったけど、兄貴が「これからは学歴社会だから、高校くらい行っておかないと」って母親を説得してくれて、俺には「お前、野球やりたいんだろう。(京都府立)峰山(高校)の化学科を出てカネボウに行け」ってね。地元は丹後ちりめんなど繊維業が盛んだったし、そのつながりでカネボウに行った先輩もいた。当時カネボウは、社会人野球の名門でね。

 とはいえ、プロに100%行けるなんて思っていなかった。田舎の学校だし、全国高校野球選手権大会京都予選で、3年で1回勝ったきりだよ。部員も十数人しかいなかった。

 え? 勉強? 化学の授業なんてわからなくて、H2Oくらいしか理解できんかった(笑)。

 南海に入ったのは、新聞配達をやっていた時に、配っているスポーツ新聞の片隅に「南海ホークス新人募集」という記事を見つけたのがきっかけ。その記事を持って学校の先生のところに行ったら、「おお、お前ならいけるかもしれんな」なんて言われて、背中押してもらったんですよ。ただ、母親は大反対。「田舎もんがそんな華やかなところ行って、みじめに帰って来るだけや。もっと地道な道を行け」って。

 それでもプロになりたくて試験場に向かった。300人以上いたかな。だけど、当時の南海の監督の鶴岡(一人)さんがいない。一応、試験には合格して、契約書にサインした。さぁ、故郷を離れいざ入団……と思ったら、先輩曰く「このテストは選手を取るんじゃなくて、ブルペンキャッチャーを取るためだけのもの」だった。

 いやもう、ショックでね。寮に帰っても電気をつける気力もない。えらいとこに来てしまったなって。それから2年間の2軍生活は、いつも母親の顔が浮かんで……。

 そんな経験をしたからかな、監督時代、若い選手に向かって、「君たちはプロ野球に入団することが到達点と勘違いしてないか」とよく説教しましたよ。入団は出発点ですから。これから頑張らなきゃいけない。それでも「プロになった」「契約金をたくさんもらった」って言って、ネオン街に消える奴は今でもいる。

 俺なんかは、給与は安かったし、大した選手じゃなかったから、毎晩バット振っていたんだ。その時、先輩によくなじられたな……。「野村、バット振って一流になれるなら、みんな一流になっているよ」ってね。「この世界は素質だ、才能だ。綺麗なネェちゃんおるぞ、待っててやるから着替えて来い」。でも、金もないし着ていくものもないから行かなかった。それが良かったのかな、ハハハ。

 素質、才能なんていうと、長嶋(茂雄)だね。いろんな面で彼が天才であることは間違いない。だけど、会話するっていうことがまずできない。人の話、聞いてないんだから、フフ。いっつも頓珍漢な話ばっかり返ってくる。

 俺は、いいバッターには囁いてね、集中力を何%か崩そうとしていたんだ。バッティングはまず集中力ですから。それでもONっていうのは、集中力がすごかった。

 ワンちゃん(王貞治)は人がいいから、色々話しかけると会話になるんですよ。ところがピッチャーが振りかぶった時から、あのギョロ目で睨みつける。集中力の切り替えが早いんだね。

 長嶋にも同じように囁くんだけれど、こっちの話をなんにも聞いてない。「チョーさん、最近、銀座、行ってんのー?」って聞いてもさ、「ノムさん、このピッチャーどう?」なんて言われてさ。会話にならないんだよ、まったく(笑)。

〈興が乗って来たのか、長嶋さんの声真似をして場を和ませるノムさん。自身の代名詞である“ID野球”は、ONの他、恩師・鶴岡監督の存在が影響していたことを明かす。〉

 現役時代、僕は田舎もんのテスト生という劣等感があって、長嶋とか王とか一流選手には、いくら逆立ちしても勝てないと思っていました。だから、南海のスコアラーに協力してもらって、自分なりにそのデータを分析したんですよ。

 練習でね、投手が「ストレート行くよ」「カーブ行くよ」って教えてくれたほうが打ちやすいじゃない。試合でもおんなじよ。野球の根本は確率のスポーツ。確率の高いものを選択する、それが野球の取り組みの基本という思いが俺にはあったんだよね。

 ただ、そのデータを重視していたおかげで、オールスターとか日本シリーズでは打てなくてね。「大舞台に弱い野村」なんて書かれたんだけれど、実際は「打てないんじゃない。実力なんだよ」と言いたかった(笑)。だって、セ・リーグのピッチャーのデータがないんだもの。そういう言い訳も、当時はできなくてね。

 鶴岡監督からは「お前は安モンのピッチャーはよぉ打つけど、一流のピッチャーは打てんのやなぁ」なんて嫌味言われて。それに、あったまきて猛勉強したよ。稲尾(和人)はフィルムに撮って擦り切れるほど見てね、配球パターンと、ほんとうに小さなクセを見つけて攻略したのよ。

 今は野球に関するデータも専門知識も豊富になってきた時代だから、選手以上に監督は勉強し過ぎるくらいじゃないといかんよな。まったく、いい時代に俺は野球やったな(笑)。

〈その経験と知恵から生まれた野球理論で、選手としても監督としても超一流の結果を残したノムさん。野村チルドレンと呼ばれる人材も多く育成した球界の功労者は、相手が誰であっても優しく語る素敵な紳士だった。ご冥福をお祈りいたします。〉

週刊新潮WEB取材班

2020年2月12日掲載

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