全国で唯一残る近鉄「鮮魚専用列車」の終焉 行商人が国鉄時代に守った特別なルール

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 毎年実施されているダイヤ改正は、鉄道ファンにとって一大イベントだ。廃止される路線や引退する車両のサヨナライベント、逆に新たな車両が登場するお披露目イベント。どちらも、多くの鉄道ファンが結集する。

 今年3月のダイヤ改正は、何と言っても東日本大震災によって運休していた常磐線が全線復旧することに注目が集まっている。2011年から運休を余儀なくされた常磐線は、順次、部分的に復旧を果たしてきた。今回のダイヤ改正で全線が復旧し、品川駅−仙台駅を直通する特急の運転も開始される。

 そうした朗報がある一方、時代にそぐわなくなって姿を消す列車もある。近畿日本鉄道(近鉄)が運行していた鮮魚列車も、今回のダイヤ改正で姿を消す。

 近鉄の鮮魚列車は1963年から運行を開始。伊勢で水揚げされた魚を大阪まで届けることを目的に、三重県の宇治山田駅と大阪府の大阪上本町駅間を往復していた。

 鮮魚列車は3両編成で運行され、行商人だけが乗車できる特別な列車だった。鮮魚列車は獲れたばかりの海産物を積み込むので、車内は魚のにおいが充満する。そうした理由から、鮮魚列車は専用車両として使用されていた。

 ダイヤ改正後、近鉄は鮮魚専用車両を一般車に連結する形で運行する。鮮魚専用車と一般車の2両編成で運行されるので、近鉄は一般乗客が誤乗しないように鮮魚専用車の車体に魚のイラストを描くなど一目で判別できる工夫を凝らすとしている。

 運行区間は以前よりも短縮し、松阪駅発−大阪上本町着となる。また、復路往復の鮮魚専用車は、誰も乗車できない回送列車として扱われる。

 一応、一般車に連結されることで廃止は免れたものの、鮮魚専用車の運行も長くは続かないだろう。鮮魚列車の役割は終わりを迎えつつある。

 近鉄にだけ残っている鮮魚列車だが、かつては全国で同様の列車が運行されていた。当時は、まだ自動車が広く普及していなかったので配送に自動車を使うことは難しかった。なにより、漁村や農村まで道路は整備されていなかった。そうした事情から、生鮮食品はもっぱら行商人が売り歩くスタイルが一般的だった。

 食べ物を売り歩く行商は明治以前から存在したが、明治から昭和にかけて全国に鉄道網が広がっていくと行商のスタイルは大きく変化を遂げる。行商人たちは鉄道に乗って、遠くまで売り歩くようになり、販路は急拡大した。

 関東圏では常磐線・総武線・成田線など、関西圏では山陰本線や廃線になった倉吉線などが行商人でにぎわった路線として知られる。

 行商人でにぎわった路線は、旧国鉄線が多くを占める。その理由は、なによりも国鉄線が津々浦々まで線路が延びていたためだ。全国まで線路が敷設されていたために、農村・漁村にも駅が設置されていた。農業・漁業で生計を立てていた人々は、近所の駅から列車に乗ることができた。そして、行商は農家や漁師にとって貴重な現金収入になった。

 一方、国鉄にとっても長距離を毎日乗ってくれる行商人はありがたい上客だった。行商人のために、国鉄はさまざまな便宜を図っている。例えば、ホームで列車を待つ間は身体への負担を軽減するために行商台を設置。行商台はベンチのような形状をしているが、カゴを背負ったまま置くことができるように高さが調節されている。

 また、行商人が多く乗車する駅では、一般乗客と大きな荷物を運ぶ行商人がぶつかるなどのトラブルを避けるために通常の改札とは別に行商人専用の通路も設けられた。

“行商人専用列車”も

 こうした便宜が図られる一方で、増える行商人が守らなければならないルールもあった。朝の混雑時、混み合う駅で一般乗客と行商人の間でトラブルが起きないように、鉄道当局は行商人が乗車できる列車を指定。また、行商人が多く利用した常磐線や東北本線は、乗換駅も指定。一大消費地でもある山手線沿線へと乗り換える際は、必ず上野駅を使うように通達されていた。このように、行商人たちの移動に関しては大幅な制限があった。

 日本各地をカバーする旧国鉄に多く見られる行商列車だが、このほど幕をおろす近鉄の鮮魚列車をはじめ私鉄の一部でも運行されている。

 首都圏では、京成電鉄(京成)が2013年まで行商列車を運行していた。

 京成が走らせていた行商列車は、千葉の農村から朝採れた野菜が積み込まれていた。京成の行商専用列車は、正式には嵩高荷物専用列車と呼ばれた。1935年から運行を開始した嵩高荷物専用列車は、一編成まるまるが行商人専用だった。そのため、一般乗客は乗車できない。まさに、特別列車といえる。

 最盛期、嵩高荷物専用列車は1日4往復が運転されるダイヤが組まれた。嵩高荷物専用列車には行き先が2種類あり、千葉方面から走ってきた嵩高荷物専用列車は青砥駅で京成上野駅方面と押上駅方面に行く電車に行き先が別れた。そのダイヤからも、沿線に農家が多く、電車に乗る行商人が多かったことが窺える。

 京成の嵩高荷物専用列車は時代とともに縮小していき、1982年に嵩高荷物専用列車は廃止される。以降、通常の車両に行商専用車が組み込まれる形で運行は続けられた。その行商専用車も2013年に廃止。こうして、京成から行商列車は姿を消した。

 ちなみに、行商列車に乗車している行商人たちは、各地域の行商組合に属している。そのため、取材を受けるか否かは個人で判断できない。基本的に行商組合の判断を仰いでいる。行商が消えようとしていた平成期、多くの郷土史家や民俗学者が行商列車を記録に残そうと奔走した。

 JR沿線の行商組合は行商に対する取材・調査に対してわりと好意的だったが、京成沿線の行商組合は一様に取材や調査には応じることはなかった。

「そっとしておいてほしい」というのが、組合の主張だった。メディアも研究者も、その意向を尊重した。こうして静かに行商専用列車は消えていった。行商の実態は沿線ごと、組合ごと、駅ごとに大きく異なる。それだけに、民俗学者や郷土史家、研究者などが行商列車を記録し、後世に語り継ぐという作業は不完全なままピリオドを打つことになった。

小川裕夫/フリーランスライター

週刊新潮WEB取材班編集

2020年3月10日掲載

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