野村克也さん逝去でも「南海ホークス記念館」に献花台ナシ 最後まで残った確執

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「関係修復は夢物語」

 江本氏が指摘するのは、南海の黄金期を築いた鶴岡一人監督(1916~2000)と、野村氏との確執だ。

 鶴岡監督は選手兼監督だった時代も含めると、1946年から68年まで南海の指揮を取った。そして通算1773勝は今でもプロ野球史上最多勝監督の記録として輝く。

 野村氏がテスト生から一流選手として花開いたのは鶴岡監督の時代だ。どう考えても文字通りの師弟関係だったはずなのだが、野村氏が現役時代から2人に確執があったとする説は少なくない。

 スポーツ報知は2000年3月、「鶴岡一人氏死去 阪神・野村克也監督追放劇の真相ヤミの中」との記事を掲載した。まずは冒頭を引用させていただく。

《40年以上も続いた男と男の確執に、静かに幕が降りた。鶴岡一人氏(83)が死去した7日、阪神・野村克也監督(64)はコメントを広報担当に託して口を開こうとしなかった》

 あれほどマスコミの取材を嫌がらなかった野村氏が、コメントしか出さないというのは極めて珍しい。南海との確執が生まれた背景について指摘した、記事の重要なポイントをいくつかご紹介する。

《9月28日に南海球団から「監督解任」の通告を受けていた。まだ籍を入れないまま、サッチーこと沙知代さん(現夫人)と同居中で、解任の理由も沙知代さんとの公私混同だった。「野村ろう城」と騒がれた1週間、野村の無念の思いは日に日に鶴岡一人元監督に向けられていく。そして姿を現した10月5日、野村は言った。「スポーツの世界には政治などないと思っていたが、鶴岡元老に吹っ飛ばされた」と》

《三冠王、そして名将にまでになった野村の恩人はまぎれもなく鶴岡氏だった。1954年、テスト生で入団した野村を56年のハワイキャンプに連れていき「収穫は野村だけだった」とその年から正捕手に抜擢する。野村のスターダムへの原点だった。

 野村が南海の兼任監督に就任したとき、表敬訪問してきた野村に「お前みたいなヒヨッ子に監督なんてできるかい」と鶴岡氏が言ったとされ、二人の確執が決定的になった》

 江本氏は野村氏と鶴岡氏の不仲は、野村氏と南海の不仲に重なり合うという。

「野村さんは鶴岡さんに育てられたのは間違いないはずなのに、最後の最後まで徹底して批判的でした。決して許そうとはしなかった。あの頑固な態度を思い出すと、そもそも野村さんは南海と和解し、再び良好な関係を築こうとは考えていなかった。そう思わざるを得ませんね」

本当に“理想の夫婦”なのか?

 産経新聞は19年9月、連載の「虎番疾風録」で野村夫妻をテーマにした。「野村監督は野球より女を取った」が記事の見出しだったのだが、一部を引用させていだこう。

《はるか後年、サンケイスポーツの評論家となった野村は平成27年4月、特集『私の失敗』の中で、当時のことをこう回想している。

『解任の報道が出る少し前、川勝オーナーや森本球団代表、私個人の後援会長、それに何かと応援してくれていた比叡山延暦寺の葉上阿闍梨(あじゃり)とが集まって、私の更迭を決めたらしい。このときオーナーは「何とか続投を」とかばってくれた。だが、ある日、阿闍梨に呼ばれ「このままでは野球ができんようになるぞ。野球を取るか、女を取るか、はっきりせい!」と迫られた。わたしは「女を取ります」と答えた。「仕事はいくらでもあるが、沙知代という女は世界に一人しかいない」と-』

 なんという格好いい宣言だろう。この後、45歳まで現役にこだわり続けた野村だが、この時は「野球」よりも「女」を取ったのである》

 記事にあるように、野村氏が南海ではなく沙知代夫人を選んだからこそ、ミュージアムには名前も写真もないのかもしれない。そんな野村氏を、産経新聞は「格好いい」と評した。

 だが江本氏は、野村夫妻の生き方を、安易に“夫婦愛の美談”とすることには否定的だ。

「お二人が幸せな夫婦だったのは間違いありません。ただし、様々な人々に迷惑をかけたのも事実です。真っ正面から理想の夫婦と褒めるのは少し違和感があります。野村さんも僕の意見に頷いてくれるでしょう。『沙知代は俺じゃないと無理だよ』は口癖でした。あの2人だからこそ成立した夫婦関係なんです」

週刊新潮WEB取材班

2020年2月29日掲載

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