70歳「友川カズキ」インタビュー 「戦場のメリークリスマス」の出演を断った真相

エンタメ 芸能 2020年2月23日掲載

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 音楽界には「カリスマ」と呼ばれるアーチストが何人かいる。友川カズキ(70)もその一人に違いない。テレビには滅多に出ないし、商業主義とは無縁とも言える存在だが、映画監督の故・大島渚さんや作家の故・中上健次さん、歌手・ちあきなおみさんらに愛され、いまなお新たなファンが生まれ続けている。主演ドキュメンタリー映画「どこへ出しても恥かしい人」も公開中だ。友川がインタビューに応じた。

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――友川は1950年2月16日、秋田県山本郡八竜村(現・三種町)で生まれた。中学時代に偶然目にしたという中原中也の詩に衝撃を受け、自分でも詩を書き始める。 高校卒業後に上京するころ、世はフォークソングブーム。友川も自分の詩に曲を付けて歌い始めたところ、宇崎竜堂(74)に見出され、1974年にレコードデビューした。

友川「カリスマ? 自分ではそんなこと一切思ったことないですよ。ずっと売れないまま、地を這うように生きてきた感じです。雑多な日々の繰り返しですよ」

――友川は大言壮語をするようなタイプではない。ステージを降りれば、むしろ控えめな男。だが、大島渚監督や中上健次さんらを魅了した才能の持ち主だ。1977年にはちあきなおみ本人の求めに応じ、「夜へ急ぐ人」(作詞・作曲)を提供。以来、彼女のために計8曲作った。

友川「ただひたすら叫んでいたら、たまたま皆さんに見つけていただいただけですよ」

――大島監督は生前、友川について、「友川のうたが胸にしみいるとしたら、君は幸せだと思え。君にもまだ無償の愛に感応する心が残っていたのだ」と書いている。最大級の賛辞だろう。また、大島監督は「友川は一度も世の中と寝なかった」とも書いた。世間に迎合したことはないし、変節もしなかったということだ。

友川「世間とうまく折り合うのは性格的に無理なんです。みんなと肩を組んで、同じ方向へ行くのが嫌なんですよ。良かれ悪しかれ、個人的なんです。変わらなかったのは、変われないから。器用じゃないんです。変節する才能もない。たった一つのポケットしかないんです。変われるというのはある意味、才能ですよ」

――では、友川にとって表現とは何なのか?

友川「私は表現とは唾を吐くことだと思っているんですよ。ずっと唾を吐いている感覚です」

――友川のファンなら周知のことだし、そうでない人も2、3曲聴くだけで分かるが、友川は誰にも真似できない詞を書く。時代を見て書いているのだろうか?

友川「詩については、頭で書くことだけはやめようと思っています。もともと頭はないですから。学歴も学力もない。出たとこ勝負なんですよ。身辺雑記です」

――中原中也に影響を受けて詩作を始めただけあって、曲より詩を先に作るという。

友川「曲はその辺にあるギターをボロンボロンと弾いて、すぐ作ります。詞はメモをいっぱい取る。詞を書くときに気を付けているのは、まとまらないようにすること。起承転結を意識しすぎると、何でもないものになってしまいますからね。どこかに破れがないとダメなんです」

――友川に惚れ込んだ大島監督は、「戦場のメリークリスマス」(1983)への出演依頼も行っている。坂本龍一さん(68)が演じた陸軍大尉ヨノイ役は、当初は友川が演じることを想定していたという。だが、友川は固辞した。

友川「標準語が話せなかったからですよ。大島監督の事務所に行き、一緒に酒を飲んでいたら、監督から『その秋田訛りは直ります?』と聞かれたので、『いえ、直せません』と答えました。それでお終いです。試写を見て、やっぱり無理だったと思いましたね。訛りも直りませんが、ヨノイは英語も話しましたからね。私は英語が全くダメなんです」

――だが、大島監督との親交はその後も続いた。

友川「監督は優しい人で、一緒に飲むと、いつも車で私を川崎のアパートまで送ってくれました。申し訳ないので、ある時、『きょうは私が送ります』と言ったら、『友川、100年早いよ』と笑って断られてしまいました」

――友川の存在感が演出家には魅力のようで、出演依頼が絶えない。昨年10月に放送されたNHKの連続ドラマ「ミス・ジコチョー〜天才・天ノ教授の調査ファイル〜」の第2話にもゲスト出演した。

友川「食品偽装する会社の社長役でした。それなら素で演じられるから。評判はよくなかったんじゃないかな(笑)」

――控えめな人らしく、これも謙遜だろう。これまでにも芸術祭大賞を獲ったNHKの硬派青春ドラマ「さすらい」(1971)や社会派映画「私は絶対許さない」(2018)などに出ている。ただし、俳優を本格的にやろうと考えたことはない。他方、画家への転身を考えた時期はあるという。

友川「歌をほとんど歌わなかった時期があるんですよ。2年間くらい。その間は絵を描いて暮らしていました」

――1980年代半ば、友川の絵は世界的に名高い美術評論家の故ヨシダ・ヨシエ氏によって見出され、『気まぐれ美術館』で知られる故・洲之内徹氏にも評価された。その後の一時期、友川は絵に没頭したのだ。

友川「歌を歌うのは結構きついんです。体力を使うのはもちろん、神経も使いますから。人に聴いてもらうからには、半端な歌は歌いたくありません。ステージに立つと、体が半分、なくなるような感覚なんです。その上、私は気が小さいんで、酒を飲まないと歌えない。ヘトヘトになるんです。絵を描くのはもともと好きなんです。それに、誰にも会わずに済みますからね。年間7回くらい個展をやった時期もあります」

――けれど、ライブハウスの観客から「友川がなぜ出ない」という抗議のようなラブコールの声が上がったため、再び歌い始めた。

友川「その後も『そろそろ店じまいかな』と考えた時期もありましたが、3・11以降は、歌をやめないことにしました。福島の原発事故が頭に来たんで。私が何かモノを言えるのはステージの上だけ。このまま黙って死ぬのは犬死にだと思いました」

――被災者たちを半ば見捨てた国に腹が立ったのだ。今も怒り続けている。

友川「東京五輪は復興五輪だったはずが、復興はどこへ行ってしまったのか。復興五輪であるなら、福島でやらないと。それだけじゃないです。疑惑がかかって経産相を辞めた菅原(一秀)氏と法相を降りた河井(克行)氏はなんで未だに議員のままなんですか。森友問題では決裁文書を書き換えた近畿財務局の職員が自殺までしているのに、麻生(太郎)氏はのうのうと財務相のまま。『桜を見る会』の名簿がなくなったなんて、誰が聞いたって嘘ですよ。人を愚弄しています」

――野党もまた許せないという。

友川「なんで束になって自民党を倒そうとしないのか? 結局、どこかで同じ穴のムジナだからですよ。彼ら、国会議員は黙っていれば給料が数千万円入ってくるんだから。こんなにおいしい仕事ないですよ。俺たちは、国会議員の就職と彼らの生活のための、ただの駒。そういう状況を打破したくても、どこにも選択肢がない。この国は不幸ですよ」

――世間にもまた腹を立てている。例えば、「勝ち組」「負け組」と簡単に分けてしまったり、学歴で人を判断したり、一度失敗した人が二度と立ち上がれなかったりする風潮だ。

友川「人間は生きているだけでもいいんです。そんな価値観がこの国からなくなってしまった。だから『津久井やまゆり園』の大量殺人事件のようなことも起きてしまう。一人一人に違いがあるという当たり前のことが、認められなくなってしまった。人間を線引きしてしまっているから、『上級国民』みたいなふざけた言葉も生まれる」

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