東京新聞有名記者vs.毎日新聞 問われているのは何か

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 大手の新聞を政治的なスタンスで分けた場合、「産経、読売」が「保守寄り」、「朝日、毎日、東京」が「リベラル寄り」とされることが多い。ところが最近、後者の「毎日」と「東京」との対立が話題となっている。

 発端となったのは、東京新聞の有名記者、望月衣塑子氏のツイートだ。菅官房長官の記者会見でのやり取りで一躍名を上げた望月氏だが、このところ指されないことが増えてきたという。その理由について、望月氏が、

「なんと番記者たちが『望月が手を挙げても指させない』と内々で決めたとの情報が届いた。」

 とツイッターで発信したことに対して、毎日新聞の番記者が「事実に反する」と指摘。そんな決めごとは存在しない、という記事をデジタル版に発表したのだ。毎日新聞側は東京新聞にツイートの削除を要請したものの、東京新聞側はあくまでも「個人のツイート」という姿勢で要請を拒否している。

 産経新聞と東京新聞がいがみ合う構図はお馴染みだが、同じ陣営と見られていた毎日新聞と東京新聞の対立構造は珍しい。

 いささか「内ゲバ」に近い様相を示しているために、世間の注目を集める事態となった。そこに加えてさらに燃料を投じたのが、「東京新聞労働組合」のこのツイートだ(2月8日)

「一番大事なのは『望月記者のツイート内容の事実誤認の有無』ではなく『官邸の記者会見のあり方』であり『内閣記者会が政権に対峙する姿勢』がどうなのか、です。」

 望月氏を支援する気持ちからのツイートだったのだが、「事実誤認の有無」よりも大事なことがある、とも受けとれる内容だったために、一層の非難を浴びることになったようで、このツイートには批判的なコメントが多数寄せられてしまった。ジャーナリストの江川紹子さんはツイッターで、

「『官邸の記者会見のあり方』をちゃんと議論するために、基礎となる事実については、すべての関係者に努めて正確な情報発信をお願いしたい。」

「『事実』を重要視する姿勢を放棄したら、ジャーナリズムは成り立ちません。」(2月8日)

 と述べている。

 政権に厳しい望月氏の姿勢には社内の労組のみならずシンパシーを抱く人は多い。だからこそ彼女の著書を原案とした映画「新聞記者」まで製作された。安倍政権と対決するメディア側の象徴のような存在となっている。

 一方で、政権とのスタンスが批判一辺倒であることに違和感をおぼえる人も少なからずいる。労組のツイートへの批判コメントにはそうした違和感を表明する人が目立つ。大雑把にまとめれば、

「ジャーナリストが最重要視するべきはあくまでも『事実』であって、それよりも大事なことがあるという姿勢は、結論ありきの報道につながらないか。いかなる議論も事実を前提にしなければいけない」

 ということになる。

 政権を追及するのは当然だが、それが自己目的化してしまっていいのか。そうした違和感を抱く人は少なくないのだろう。

 ニュース番組「飯田浩司のOK! Cozy up!」(ニッポン放送・月~金、朝6時~)のパーソナリティでアナウンサーの飯田浩司氏は、著書『「反権力」は正義ですか』の中で、この違和感について解説をしている。少し長くなるが引用してみよう。

「『マスコミの使命は権力と戦うことだ』という意見をよく聞きます。実際にニュース番組をやっているとそうした趣旨で諭されることもあります。

 なるほど、国が進むべき道を誤りそうなとき、マスコミが警鐘を鳴らすべきだという意味では完全に同意します。ならば、報道に携わる人間は政策についてよく学び、国民への影響、メリット・デメリットを是々非々で評価すべきなのではないでしょうか。

 ところが、マスコミの中では多くの場合、『是々非々=権力寄り』と評価されてしまいます。実際に私個人や番組も、少しでも政権について肯定的な考え方を伝えると、そうした評価をされてきました。なぜ是々非々が迎合なのでしょうか?

 私は逆に聞きたくなるのです。

 マスコミが考えるところの“国の進むべき道”とは、『権力の逆方向』に固定されているのでしょうか? 権力A(例えば政権)がBに変わったら、マスコミもそれに合わせて『権力Bの逆方向』へと主張を変えるのでしょうか? と。権力が交代した瞬間に、マスコミの主張が大きく転換してしまうような変節を良しとするのでしょうか? そんなマスコミが建前で考えたような『反権力』がいつも正しいことのように伝えられる――それっておかしくないですか? 

『マスコミの使命は権力と戦うことだ』という言葉は本来、民主主義を守るために必要な倫理観によって調査報道を行うジャーナリズムの精神を体現したものと、私は理解しています。ところが、それがいつの間にか『権力と戦う自分たちの物語』にすり替わっているように見えてなりません。私は、この『権力と戦う』という言葉が本来の精神を失ってそれ自体が目的化し、マスコミ報道から“是々非々”という姿勢を奪い、自らを闘士に据えた陶酔の物語に引きずり込んでいるようにも見えてしまうのです。周りから見れば、もはやマスコミは特別な存在ではないのに。

 一般の視聴者がSNSなどを通じて、時には専門家も交えながら活発に政策論を交わすこの時代にあって、遠い目をしながら『マスコミの使命は権力と戦うこと……なんだよね……』と具体性なく言われると、気恥ずかしさすら覚えてしまいます(略)

 マスコミは自分たちを物語の主人公に据えず、国民、すなわち読者、視聴者の生活を豊かにするというあるべき姿へと回帰すべきと思います」

 事実を重視しなければ、結局はそこが弱みになってしまう。また、本来「番記者」と「それ以外の記者」との対立などというのは、内輪の決め事の問題であって、世間にアピールするよりも業界内で議論をすべきことだ、と読者は思うことだろう。「権力の監視」をするためにも、内ゲバをしている場合ではないのではないか。

デイリー新潮編集部

2020年2月17日掲載

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