名将・野村克也さん逝く…「野村再生工場」で見事に生き返った不屈の男たち

スポーツ 野球 2020年2月13日掲載

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 今月11日、虚血性心不全で亡くなった野村克也氏(享年84)。選手としても監督としても輝かしい実績を残し、様々なエピソードが残っているが、その中でも“らしさ”を最も発揮されたと言えるのが選手の再生術である。他球団で成績が下降した選手や、成績を残すことができなかった選手が次々と活躍する姿は『野村再生工場』とも言われた。どのような選手が野村のもとで再生したのか、また彼らがなぜ再生することができたのか、改めて振り返ってみたい。

 野村再生工場というとヤクルト監督時代のイメージが強いが、選手兼任監督だった南海時代でもその手腕は発揮されている。東映(現・日本ハム)在籍わずか1年でトレードとなり、移籍1年目からいきなり先発の柱となった江本孟紀などが最初の代表例と言われるが、さらに見事だったのがその江本を放出して阪神から獲得した江夏豊の再生だ。阪神時代の晩年は故障で大きく成績を落としており、南海移籍1年目も6勝12敗と大きく負け越している。そんな江夏に対して野村は「一緒に野球界に革命を起こそう」という口説き文句でリリーフ転向を決意させ、球界を代表する抑え投手へと蘇らせてみせたのだ。江夏の南海在籍はわずか2年と短かったものの、その後移籍した広島や日本ハムでも大活躍を見せ、“優勝請負人”とも言われた。野村のこの一言がなかったら、伝説として語り継がれている1979年の日本シリーズにおける「江夏の21球」も生まれることはなかっただろう。また、投手の分業化が進んだという意味では、まさに野球界の革命だったと言える。

 そして、冒頭でも触れたように、再生工場としての手腕が最も冴えわたったのがヤクルト監督時代だ。投手で再生工場の最高傑作と言われたのが田畑一也である。ダイエーの入団テストを受け、91年のドラフトで全体でも最後となる10位でプロ入りを果たしたものの、在籍4年間での成績は43試合に登板して2勝2敗という数字に終わっている。

 だが、95年のオフにトレードでヤクルトに移籍すると、いきなりローテーションの一角に定着して12勝をマーク。そして翌年には15勝5敗とチームの勝ち頭となり、リーグ優勝、日本シリーズ制覇の立役者となったのだ。主力としての活躍はこの2年間だったものの、全く実績のなかった選手がトレードによってここまで大きく飛躍した例は、前述した江本とこの田畑が双璧と言えるだろう。

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