私は遺伝性難病のわが子を手にかけ… 命の選別という「出生前診断」ルポ

ライフ 週刊新潮 2019年12月5日号掲載

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命の選別という「出生前診断」に母親の懊悩――河合香織(1/2)

 遺伝性の難病を抱えて生まれたわが子の将来を憂え、母親は幼い命を手にかけた。この先、辛い生を味わわせるのは忍びないと。では出生前診断を受け、事前に難病と分かっていたら、果たしてその子は生を享(う)けていたのだろうか……。「命の選別」の意味を問うルポ。

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「やっぱり出生前診断を受けたかった。今もそう思っています。自分のしてしまったことを考えると……。病気の子であっても育てようと思っていたけれど、結局私が精神的に弱かったんだと思います」

 うつむき加減の女性の表情は穏やかながら、目の下には隈が浮かんでいる。

 あれから3年が経った。しかし、彼女はまだ熟睡することができていないのかもしれない。悔恨と贖罪、そして今でも答えを見出せない懊悩がにじみ出ている。出生前診断に翻弄され、殺人未遂を犯してしまった44歳の女性。彼女が手にかけたのは、わが子だった。

〈難病1歳殺害未遂 容疑の41歳母逮捕〉(2016年11月19日付朝日新聞)

〈難病で入院の三男を殺害未遂容疑 母逮捕=宮城〉(同日付読売新聞)

 3年前、彼女は1歳になったばかりの三男であるわが子の鼻と口を塞ぎ殺人未遂の容疑で逮捕された。三男は体内で作られる特定の酵素が不足し、視覚や聴覚の障害、飲み込む力もなくなっていく厚生労働省の指定難病を患っていた。3歳までの死亡例が多く、根治的な治療法は未だない。

 彼女は男の子ばかり3人の子どもを産んだ。事件の10年ほど前に同じ病気で次男を4歳で亡くしていた。

 病気は遺伝性の疾患であった。父親と母親から同じ病気の原因遺伝子を受け継いだ場合にのみ子どもに発現する常染色体劣性遺伝の病気で、子は4分の1の確率で発病する。残りの4分の1は何もなく、2分の1は原因遺伝子を持つが発病しない「保因者」となる。この難病は日本では10万人に1人と言われているが、保因者は150人に1人ほどいると推定されている。ほとんどの人がこのような病気を発症する遺伝子をいくつか持っているが、常染色体劣性遺伝では両親ともに同じ原因遺伝子を持っている場合のみ、子に遺伝子は受け継がれる。つまりこの母親、そして彼女の夫はともに自身は発病しなかったものの保因者で、次男と三男にそれが受け継がれ発病したことになる。

 母親が40歳を目前に三男の妊娠が分かった時まず考えたのは、新しく生まれる子がまた次男と同じ病気だったらどうしようかということだ。出産予定の産科クリニックで「出生前診断とかってできるんですかね」と思い切って相談をした。医師は「ダウン症などしか調べられないものだし、遺伝子検査とかするとすごくお金がかかるよ」と現実とは異なる説明をし、否定的な態度だった。夫も「病気であっても今度はおれが一生懸命面倒見るから必要ない」と言った。しかし妊娠中も、そして出産後も彼女は不安で仕方がなかった――。

 出生前診断は現在大きな転換期を迎えようとしている。厚生労働省は2019年10月21日、新型出生前診断(NIPT)をめぐる諸問題に対処するための有識者による第1回の検討部会を開いた。産婦人科医と小児科医が常勤し、十分な遺伝カウンセリングを行うなどの日本産科婦人科学会の指針に従わずにNIPTを実施する無認定の医療機関の急増を受けてのことだった。遺伝カウンセリングとは、出生前診断の前後に、専門家が科学的見識に基づき、遺伝情報や、診断の結果を知ってどうするつもりなのかなど、親を医療面、心理面でサポートするカウンセリングのことである。

 国が出生前診断のあり方に介入するのは、1999年に母体血清マーカー検査に関する見解を出してから実に20年ぶりとなる。NIPTは、流産等のリスクがある羊水検査と違い、妊婦の血液から、胎児の染色体異常を調べることができるため、日本でも急速に広まっている。

 20年前の出生前診断に関する委員会では、「医師は妊婦に対し本検査の情報を積極的に知らせる必要はなく、本検査を勧めるべきでもない」という見解を出した。まだ命の選別につながる出生前診断をタブー視する空気が色濃かった。だが現在、医療技術は進み、情報も容易に入手できるようになり、このような「寝た子を起こすな」といった文言はもはや実質的な意味をなさない。しかし国の動きは、進歩する技術と変化する妊婦の意識の後手に回り、出生前診断に関する判断を避け、学会任せにしてきたように映る。

 また、海外ではより「先」に進んでいて、胎児の23対46本の染色体に留まらず遺伝子の異常など多数の疾患について調べる検査も行われている。現状、日本の認定施設のNIPTでは、ダウン症などの3つの染色体異常に限って検査しているものの、NIPTではないが、日本でも専門的な施設であれば、遺伝性疾患などの出生前診断ができる場合もある。

 この母親は果たして、受けられなかった「幻」の出生前診断に何を求めていたのだろうか。

「いざ生まれると…」

 宮城県内の整然とした住宅街にある親戚宅で、その母親は暮らしていた。自らが口を塞いだ子は一時心肺停止になったが何とか一命をとりとめ、現在は自宅から3時間離れた病院に入院している。

 2017年、仙台地方裁判所は彼女に懲役3年、保護観察付き執行猶予5年の判決を言い渡した。

 彼女は裁判で、「次男と同じ運命なら今のうちに楽にさせたかった。助かったと聞いても喜べなかった。生き延びることが幸せだとは思えなかった」と語っていた。どうせ短く終わることがわかっていた人生だから三男の命を絶とうとし、それ以前に出生前診断を受けていればそもそも三男は生まれてくることはなかった。だからこそ、検査を受けたかったのだろうか。だが、私の安易な見立てを崩すように彼女は語りだした。

「次男の時、寿命は3歳までと医師から言われていました。みんなから大変だねと言われたけれど、私は全然大変ではなかった。いろいろなことを教わったし、この子のおかげで家族の絆も強くなった救世主のような存在でした。歩くことはできずに車椅子だったし、経鼻チューブをつけていたけれど、充電式の痰の吸引器も持ってどこにでも一緒に連れて行きました。人からじろじろ見られることもあったけれど、まったく気にならなかった。小川でのバーベキューや海辺のキャンプも一緒に行きました」

 どんなサポートでもしようと誓った。3時間おきの吸引のため、その頃はまとまって眠った記憶はない。そんなある日、疲れがたまってふうっと眠ってしまい、ふと目が覚めたら朝方で、次男は痰が詰まって亡くなっていた。青くなって、泡を吹いていた顔が忘れられない。5歳の誕生日の1カ月前のことだった。

「私のせいであんなかわいい子が死んでしまったんだと自分を責め続けました。引きこもりになり、外に出られなくなりました」

 それは3年もの間続いた。それでも少しずつ心を休め、ようやく働き始めることができるようになった頃に、予期しない妊娠が発覚した。

 亡くなった次男の主治医が言っていた「次の子が同じ病気になる確率は4分の1」という言葉を思い出した。だが、先に説明した経緯があり、結果的に出生前診断を受けることなく、三男が「4分の1」なのか分からないまま出産を迎えた。

「その時は生まれてくる赤ちゃんのためにとにかく『尽くそう』と意気込みました。でも、いざ生まれると三男はとにかく泣いて、全然寝ない。ちょっとした音にも敏感に反応しました。外から音が入って来ないように、私は家中の窓という窓をガムテープで目張りし、隙間を塞ぎました」

 それでも赤ちゃんは泣き止まなかった。抱っこしていないと泣くので、母親は食事をとることもできなくなった。55キロあった体重は40キロを下回った。こんなに泣くのはやっぱり病気なのかもしれない。何軒もの病院を回り、この子の兄が遺伝性の病気で亡くなったことも話して相談したが、「赤ちゃんなんてみんな泣くものだから大丈夫」と相手にしてもらえなかった。しかし、彼女の中には「確信」が芽生えつつあった。次男と同じ難病に違いないと。

 生後3カ月の頃、母親は三男の口を塞いでしまいそうな衝動に駆られた。手を伸ばした瞬間に我に返って、以前訪問してくれた保健師に電話をした。すぐに保健師と児童相談所の職員がやって来て、「お母さん、少しだけでも休みましょうね」と言われ、三男は一時的に乳児院で面倒を見てもらうことが決まった。彼女にはうつ病の診断がつき、精神科に通院するようになった。夫も夜勤が続く生活に忙殺されていた。四六時中泣くことを止めようとしない三男の育児に、彼女は追い詰められつつあった。

 そして16年8月、母親の「確信」は的中する。次男と同じ難病であると診断されたのだ。

「心の準備」

 その3カ月後、三男は喘鳴と発熱により、宮城県立こども病院に入院することになった。母親は入院に付き添い、病院で寝泊まりした。

 事件が起きたのは翌々日であった。早朝に三男が痰の吸引をされていた場面を母親は目撃する。次男の生まれてから亡くなるまでのすべてが思い出された。吸引のために鼻から喉まで管を通され、暴れる力もなく、ただただ顔を真っ赤にして苦しむ、まだ1歳の三男。もちろん、しゃべることはできず、目もほとんど見えていない。しかし、そのつぶらな目からとめどなく涙が流れている。

「何度も看護師さんが三男の痰を吸引していて、三男はわーわーと泣いていた。ああ、この子は一生死ぬまで吸引の繰り返しをしなければいけないし、どんなに生きられても次男と同じ4歳までなんだ、またこの子も苦しんで死んでいくのかと思ったら、今のうちに亡くなった方が幸せなんだと感じました。私も一緒に死のうと思いました」

 生きていても苦しいだけなら、早く楽にしてあげよう。そう思って手にかけた。だがその直後、母親は自らナースコールを押した。

 あまりに酷だと思いながらも聞かねばならないことがあった。どうしてナースコールを押したのかと。苦しんで死んでいくだけの短い命なら死んだ方が幸せだ、だから口を塞いだと母親は語った。その言葉とナースコールで助けを求めた行動は矛盾するのではないか。

「とっさに、何も考えずにナースコールを押していました。看護師さんに呼ばれて、我に返り、ああなんてことをしてしまったんだと思った。午後になれば主人が看病を代わってくれるという日だったのに、おかしくなっていました」

 三男は心肺停止の影響で、難病に加え、精神遅滞などの合併症を抱えて生きていくことになった。

「それでも、自分でナースコールしたくせに、『なんで先生は助けたんだろう。あのまま楽にしてあげた方が良かった』と、あの時は本当にそう思ったんです」

 現在は病院で暮らす三男に、1カ月に1度会いに行っている。できれば三男を引き取り、また家族みんなで暮らしたいと思っている。

「今年の新年の目標は、あの子と一緒に暮らすことだったけれど、まだ実現できていません。それでも、あの子の寿命もあるし、早く迎えに行かなくてはと思ってはいるのですが……。最期まで見届けてあげたい気持ちはあります」

 会いに行っても、三男はうつらうつらとして、母親が誰かも理解できない。それでも一緒に暮らせるようになったら、次男と行った思い出の美しい小川に一緒に行きたいと願っている。

「あの子とは楽しい思い出が何もないんです。だから、今から作っていきたい」

 一度は自らの手で絶とうとした難病のわが子の命を、今は愛おしみ、慈しみ、出来る限り精一杯育もうとしている。では結局、彼女は出生前診断を受けてどうしたかったのだろうか。

「あらかじめ病気が分かっていたら、生まれた後にあれほど神経質に心配しなかったはずです。心の準備もできた。病気を疑いながらも、はっきりしない状態は本当に不安なものです」

 あくまで「心の準備」のためで、中絶は考えなかったということなのだろうか……。

(2)へつづく

河合香織(かわい・かおり)
1974生まれ。障害者の性の問題を扱った『セックスボランティア』(新潮文庫)がベストセラーに。近著『選べなかった命 出生前診断の誤診で生まれた子』(文藝春秋)で、第50回大宅壮一ノンフィクション賞と第18回新潮ドキュメント賞をダブル受賞した。

特集「私は遺伝性難病のわが子を手にかけ…『命の選別』という『出生前診断』に母親の懊悩」より