「石井ふく子」が明かす、「京マチ子さん」との“やすらぎの郷”生活

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 テレビで活躍した昭和世代が一つ屋根の下で余生をすごす――。倉本聰脚本のドラマ「やすらぎの郷」さながらの世界が、都内に存在していた。そこでの京マチ子との交流を、石井ふく子さん(93)が回想する。

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「15年ほど前、奈良岡朋子さんからいい物件があると教えられて、モデルルームを見て気に入ったので住むことに決め、奈良岡さんも住むようになりました。京さんが引っ越していらしたのは5、6年前ですね」

 こうして昭和の名プロデューサーと戦後の名女優たちが集まり、都心の高層マンションがやすらぎの郷になったのだが、2019年に95歳で亡くなった京マチ子が加わるまでには、曲折があったという。

「ずっと面倒を見ていたマネージャーの方が亡くなって、お一人になった京さんから、南町田のマンションを見学してきてもらえませんか、と頼まれました。でも、南町田は遠いので都心がいいんじゃないか、と申し上げました。見学に行く日、私が住むマンションの空き状況をフロントの人に聞くと、“1部屋空いています”と言われてね。京さんに見ていただき、“奈良岡さんも私もいて、なにかあったときに便利だし”と伝えたら、“じゃあ、ここにしましょう”と。その後、若尾文子さんも住むことになったんです」

 さて、やすらぎの郷における交流だが、

「私が煮物を作るとき、京さんに連絡すると、“いただくわ”とおっしゃってくれて、京さんからお料理をいただくこともありました。かぼちゃの煮物が得意でした。京さんお気に入りの赤坂の日本料理屋さんとかに外食に行くことも。お正月は4人で集まって、おせちを食べる会をしておりました。朝10時ごろ、私の部屋に集まって“あけましておめでとうございます”と挨拶をする会です」

 だが、18年夏、京はケアマンションに移ったという。

「24時間、面倒を見てもらえるほうがいいからと。令和が発表されたとき京さんを訪ねると、“元号が変わって時代が変わるというけれど、私たちは別に変わらないものね”と、笑っていらっしゃいました。5月12日に亡くなる前日、お見舞いに行くと、私の手を握ってずっと離しませんでした。力強い握り方なので、大丈夫だと思ったのですが」

 ハワイに納骨された直後、雨が上がって虹が出たという。エンディングもまたドラマのようだった。

週刊新潮 2020年1月2・9日号掲載

ワイド特集「窮鼠猫を噛む『女力』」より

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