「女性宮家」を声高に主張する「朝日新聞社説」の本音を読み解く

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皇位継承問題は「将来の主権者に」という朝日の欺瞞

 では、女性天皇や女系天皇を容認しているのかどうかというと、そうでもないらしい。「男女平等の理念や、男子誕生の重圧から皇室を解放しようとの考えから支持が広がる。一方でとりわけ女系天皇への反対は根強く、政党間でも見解が割れ、合意形成は難しい状況だ」としているのがそうだ。確かに同紙は決して女性天皇や女系天皇の容認を正面からは主張していない。「国民統合の象徴をめぐり、国民に深刻な亀裂が生まれるのは好ましくない」とも書いており、“クオリティーペーパー”としての見識を示している。これはこれで評価したい。

 だが、社説には朝日の言いたい本音が隠されているように思う。まず、旧皇族に関する主張の中で「女性皇族を飛び越えて『国民統合の象徴の有資格者』とすることに幅広い賛同が得られるとは思えない」という部分である。これは、「国民統合の象徴の有資格者にするのは女性皇族が先だ」と言っているようなものではないのか。

 最も気になるのが次の部分である。「(継承者の安定確保について)当面は悠仁さまと新女性宮家の様子を見守り、判断は将来の主権者に委ねる。そんな考えもあるように思う」。わかるようでわからない難しい表現だ。「様子を見守り――」とはどういう意味だろう。筆者はこの文脈を次のように読み解いた。将来、天皇になった悠仁親王にお子さまが生まれなかったり、あるいは悠仁さまが何らかの事情で即位できないようなことがあったりした場合、女性宮家の当主である女性皇族と婿入りした男性との間に生まれた子どもに即位していただく―――。そうであれば、当然ながら将来は女系(婿入りした男性の父系)に皇統が移ることも認めるという前提に立っていることになる。さらに、「判断は将来の主権者に委ねる」というのは、朝日が批判する「政府は検討を先延ばしにしてきた」ことと同じではないのか。

女性宮家の次は女性・女系天皇だと公言する野田元首相

 ここで、女性宮家とはどういうものか簡単に振り返ってみたい。平成24年(2012)、当時の野田佳彦内閣(民主党)は有識者に対するヒアリングを行って論点を整理し、女性皇族が結婚後も皇室に残ることができる「女性宮家」の創設を検討すべきとの提言をまとめた。背景には、男性皇族の減少という現実の中で若い女性皇族が結婚して皇室を離れていけば、広範な皇室の活動が成り立たなくなるとの宮内庁サイドの危機感があり、当時の羽毛田信吾長官が野田首相に相談したのがきっかけだった。

 これに先立つ平成17年(2005)には、小泉純一郎内閣が設置した有識者会議が女性・女系天皇を認める報告書をまとめ、政府が典範改正に向けて動き出したが、翌年に悠仁親王が生まれたため改正案の国会提出が見送られた経緯がある。このため、野田内閣は皇位継承論議とは切り離して、つまり皇位継承の資格や順位に手をつけないという前提で皇室典範の改正に向けて準備を始めた。しかし、女性皇族の範囲や婿入りした男性やその間に生まれた子供を皇族にするかなどの課題はそのままで、野田首相の退陣と女性宮家に慎重な自民党の安倍晋三政権の誕生で、この構想は事実上、立ち消えになった。

 その女性宮家が再びクローズアップされたのは、平成29年(2017)6月に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が成立した際、国会が「政府は、安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について(中略)本法施行後速やかに、皇族方のご事情を踏まえ、全体として整合性が取れるよう検討を行い、その結果を、速やかに国会に報告すること」との付帯決議を行ったことから。ただ、当初案には「女性宮家」は付帯決議には入っていなかった。当時の民進党が審議拒否をちらつかせたこともあり、混乱を恐れた与党が妥協したという経緯がある。従って、決議文にある「安定的な皇位継承を確保するための諸課題」と「女性宮家の創設等」はイコールではなく、あくまでも両者は別のものであることを念押ししておきたい。

 野田内閣時代の女性宮家創設案は、皇位継承議論とは切り離すという前提であったが、
それは国民の目を欺くまやかしである。なぜか。女性皇族が宮家を創設するということは独身を貫くということではないから、当然ながら外部から皇室とは縁のない男性が婿入りする可能性がある。この男性を皇族にするかどうかはともかく、その間に子どもが生まれた場合、母である皇族の血を引いているということで「皇族」として扱わざるを得なくなる。国民感情としてもそうなるだろう。その子が男の子であれば文句なしに皇位継承となり、即位すればこれまでの歴代天皇の男系につながらない、婿入りした父親の男系につながる新たな皇統が誕生するのである。国民がそれでもいいと言うのなら、それでいい。しかし、皇位継承問題と切り離した「女性宮家」などないのだ。ある宮内庁OBは今でも「女性宮を創るということは、女性天皇や女系天皇を認めることになるのは常識で考えればわかることだが、現役時代には絶対言うわけにはいかなかった」と公言する。女性宮家創設に向けて先鞭をつけた野田元首相自身が平成29年(2017)7月の朝日新聞(デジタル版)のインタビューで「これからの10年間でまず女性宮家、次に女性・女系天皇の問題に決着をつけなければならない」と明言している。女性宮家は、女性・女系天皇につながるのではなく、イコールなのだ。

旧皇族の家系には上皇陛下や天皇陛下の血縁者も

 朝日が言下に否定する旧皇族復帰案だが、誤解している日本人が多い。朝日が言うように「600年前に天皇家から離れた親王の末裔」というのは表現はともかく、事実としては間違ってはいない。しかし、敗戦後の昭和22年(1947)にGHQの圧力で皇籍を離脱するまでは11の宮家が存在していた。それは何のためか。ほんの70数年前まで皇室の男系の皇統を護るための「藩屏」として、失礼な言い方を許していただくなら、いざという時の「血のスぺア」としての役割を担ってきてくれたのである。「600年前に離れた」ということは、別な言い方をすれば、その間に出番がなかっただけとも言えるのだ。その重責を担ってきたはずの旧宮家を、日本国憲法の施行に合わせて、あっさりと切り捨てたのがGHQによる占領政策でもあった。皇籍離脱した旧宮家の旧皇族が、その品位、矜持を保つためにどれだけ苦労してきたかは『語られなかった皇族たちの真実』(竹田恒泰著)を読めばわかる。 

 旧宮家の中でも、とりわけ東久邇宮(ひがしくにのみや)家は現在の天皇陛下とも血縁で結ばれていることはあまり知られていない。皇籍離脱した際の当主は、終戦の2日後に昭和天皇の命を受けて総理大臣に就任した東久邇宮稔彦(なるひこ)氏である。稔彦氏は久邇宮家の末っ子として生まれ、本来は臣籍降下する立場だったが、明治天皇の第9皇女と結婚して東久邇宮を立てた。その長男の盛厚(もりひろ)氏は昭和18年(1943)に昭和天皇の長女である照宮成子(しげこ)さんと結婚した。上皇陛下のお姉さまであり、天皇陛下のおばさまにあたる。昭和36年(1961)に5人の子どもを残して35歳の若さでなくなった。5人の子どもは天皇陛下のいとこにあたり、複数の男子の子がいる。

 旧皇族復帰というと年配の方をいきなり皇族にするようなイメージで見られがちだが、関係者によると、旧皇族の男系の若い子孫を現在の宮家の養子として迎えるなどして、将来の皇位継承者としてお育てするなどの考え方があるという。

 一方、女性宮家については、具体的なお名前を出して恐縮だが、秋篠宮家の眞子さまが女性宮家を創設し、そこに現在話題の男性が婿入りしたとして、果たして国民の賛同を得られるだろうか。その男性が例え皇族にはならなくても、皇族に準ずる立場で皇室の一員として公務を担うようになった場合、国民は違和感を持たないだろうか。

 一般論としても、一般家庭に生まれて普通に自由な生活をしていながら、女性宮家を創設した女性皇族の元に“婿入り”するような人が現れるかどうか疑問だ。現れなかったら、その女性皇族は一生涯、独身を貫くことを強いられる結果にもなるのだ。仮に、そういう男性がいたとしても、いわゆる身元調査などが男性皇族のお妃となる方と比べてもはるかに難しいことが想像できるのだ。

椎谷哲夫(しいたに・てつお)
元宮内庁担当記者。1955年、宮崎県都城市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。新聞社で警視庁、宮内庁、警察庁、旧運輸省などを担当。米国コロラド州の地方紙で研修後、警視庁キャップ、社会部デスク、警察庁を担当。40代で早稲田大学大学院社会科学研究科修士課程修了。著書に『皇室入門』(幻冬舎新書)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年1月4日掲載

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