感染した人間を死に至らしめる狂犬病ウイルスから回復した少女【えげつない寄生生物】

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狂犬病の2種類の症状~攻撃型か麻痺型か~

 狂犬病の症状には狂騒型と麻痺型と言われる2種類のタイプがあります。狂騒型では、極度に興奮し攻撃的な行動を示し、他の動物を咬むことがあります。犬では狂犬病の70~80%のケースは狂騒型と言われています。

 また、麻痺型は動物を咬むことが少ない症状で、狂騒型の狂犬病よりも劇的ではなく、長い経過をたどります。筋肉は徐々に麻痺し、昏睡状態がゆっくりと進行します。

 しかし、症状がどちらの型だとしても、狂犬病は、いったん発病すると有効な治療方法は確立されておらず、死亡率はほぼ100%という非常に恐ろしい病です。

狂犬病から回復した少女

 狂犬病に感染した場合、発症前であれば直ちにワクチン接種と免疫血清の投与を行うことで発症を防ぐことができます。狂犬病ウイルスは神経を伝って脳に広がるまでに時間がかかるため、免疫血清とワクチンによる免疫が脳内でのウイルス増殖を阻止し、発症を防ぐと考えられています。一方、先に述べたようにウイルスが脳に達し、発症してしまうと、治療法がなく、助かることはないとされてきました。

 ところが、米国で2004年に狂犬病にかかった15歳の少女が、狂犬病の発症後であるにもかかわらず回復した例が報告されました。

 その少女は、病院で診察を受けた際、すでに疲労感、嘔吐、視野攪乱、精神錯乱、運動失調などの症状を示しており、診察時は脳炎が疑われました。その後、すぐに症状は増悪し、唾液過多、左腕の痙攣などが出現してきました。しかも、少女の両親の話では、4週間前に教会でのミサの最中に窓にぶつかって落ちたコウモリをつかまえて外に出そうとした際、少女は左手親指を咬まれたとのことでした。アメリカではコウモリから狂犬病ウイルスに感染することがしばしばあります。

 そして、ウイルスの検査をした結果、少女の血液と髄液で狂犬病ウイルス抗体が見つかります。髄液から狂犬病ウイルス抗体が発見されたということは、少女の脳内にまで狂犬病ウイルスが広がっているということになります。それは絶望的な結果でした。なぜなら、それまで、脳内がウイルスに侵されて助かった人はいなかったからです。

 しかし、少女を担当した医師は諦めず、狂犬病ウイルスに関する様々な文献を調べて、脳にまで感染が広がっている少女を救うための治療のヒントを見つけようとしました。様々な文献の情報から、狂犬病ウイルスは脳の細胞を破壊しておらず、脳からの神経伝達を侵すことで、脳からの指令が臓器に届かなくなり、その結果として心臓の活動や呼吸といった機能を破壊し、死に至らしめようとしていると考えられました。

 これらの情報から実験的な治療計画を立て、動物実験で狂犬病ウイルスの阻止効果が見られた麻酔薬で昏睡状態に誘導します。これは、脳の活動を抑え、少女の免疫系が抗体を分泌してウイルスを撃退するまで彼女が持ちこたえることを期待してのことでした。そして、抗ウイルス薬を投与します。すると、少女は7日間昏睡状態が続いた後、徐々に回復し、2か月半後には退院することができました。

 この治療は「ミルウォーキー・プロトコル」と名付けられました。この治療法は人の狂犬病治療における実験的な処置方法で、これまで50名以上に実施され6名が回復したと報告されています。

ウイルスが宿主の攻撃性を引き出す仕組み

 ウイルスは、細胞機構も持たず、生物かどうかも怪しい存在です。狂犬病ウイルスは5つの遺伝子しかないにもかかわらず、高度な免疫および中枢神経系を持ち、2万を超える遺伝子を持つ犬の行動を変化させることができます。

 これまで、単純な構造しか持たない狂犬病ウイルスが宿主の脳を乗っ取り、感染した宿主をどのように狂乱の攻撃状態に陥らせているかはほとんど不明でした。

 しかし、2017年にアメリカの研究チームによって、ヘビの毒素と起源が一緒だと考えられる狂犬病ウイルス糖タンパク質の領域には、動物の中枢神経系に存在するニコチン性アセチルコリン受容体を阻害する作用があるため、宿主の攻撃行動に影響を与える能力を持つ可能性が示されました。

「えげつない寄生生物」シリーズは、今回をもって終了します。お読みくださってありがとうございました。

 なお、同シリーズをまとめた単行本(タイトル未定)は、来春ごろ刊行予定です。

※参考文献
Hueffer, K., Khatri, S., Rideout, S., Harris, M.B., Papke, R.L., Stokes, C., Schulte, M.K. (2017) Rabies virus modifies host behaviour through a snake-toxin like region of its glycoprotein that inhibits neurotransmitter receptors in the CNS. Scientific Reports 7: 12818.
Johnson, M., Newson, K. (2006) Hoping again for a miracle. Milwaukee Journal Sentinel
Fooks, A.R., Johnson, N., Freuling, C.M., Wakeley, P.R., Banyard, A.C., McElhinney, L.M., Marston, D.A., Dastjerdi, A., Wright, E., Weiss, R.A., Muller, T. (2009) Emerging technologies for the detection of rabies virus: challenges and hopes in the 21st century. PLoS Neglected Tropical Diseases 3: e530.
Moore, J. (2002) Parasites and the behavior of animals. Oxford University Press, Oxford.
Poulin, R. (1995) “Adaptive” changes in the behaviour of parasitized animals: A critical review. International Journal for Parasitology 25:1371-1383.
Pawan, J.L. (1959) The transmission of paralytic rabies in Trinidad by the vampire bat (Desmodus rotundus murinus Wagner). Caribbean Medical Journal 21: 110–136.
厚生労働省:狂犬病に関するQ&A

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成田聡子(なりた・さとこ)
2007年千葉大学大学院自然科学研究科博士課程修了。理学博士。
独立行政法人日本学術振興会特別研究員を経て、国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所霊長類医科学研究センターにて感染症、主に結核ワクチンの研究に従事。現在、株式会社日本バイオセラピー研究所筑波研究所所長代理。幹細胞を用いた細胞療法、再生医療に従事。著書に『したたかな寄生――脳と体を乗っ取り巧みに操る生物たち』(幻冬舎新書) 、『共生細菌の世界――したたかで巧みな宿主操作』(東海大学出版会 フィールドの生物学⑤)など。

2019年12月20日掲載

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