「死刑囚がパンまつりに応募する権利?」 百田尚樹氏が「死刑反対論者」を斬る

社会 2019年11月28日掲載

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 滞日中の一挙手一投足がニュースとなっていたローマ教皇は、様々なメッセージを日本で残していった。特に被爆地を訪問しての核廃絶の訴えは大きく取り上げられた。

 一方で、教会が認めないとしている死刑に関しては、演説で直接廃止を求めるようなメッセージは発信しなかったという。これは日本の事情などを考慮してのことだろうか。

 死刑判決を受けて裁判のやり直しを求めている袴田巌さんとの対面も実現しなかった。この点は、かねてより死刑の廃止を訴えている日弁連にとっては肩すかしだったかもしれない。

 教皇来日の前日、11月22日にも日弁連は法相あてに「日本において国連犯罪防止刑事司法会議が開催される2020年までに死刑制度の廃止を求める要請書」を提出している。

 この要請書によれば、日弁連が死刑を廃止するべきだとする主な理由は以下のようなことになる。

・死刑は、生命を剥奪するという刑罰であり、国家による重大かつ深刻な人権侵害である。

・冤罪などの可能性は否定できない。にもかかわらず、一度執行すれば取り返しがつかないという点で他の刑罰と異なる。

・私たちが目指すべき社会は,罪を犯した人も最終的には受け入れる寛容な社会であり,全ての人が尊厳をもって共生できる社会である。

・世界の3分の2以上の国ではすでに実質的に廃止されており、OECD(経済協力開発機構)加盟国では日米韓の3カ国のみになっている。国際的な世論の大勢は廃止である。このままでは世界から孤立してしまう。

 こうした主張は目新しいものではない。一方で、日本において必ずしも廃止の声が高まっていないのも事実である。2014年の内閣府の行った調査では、死刑を廃止すべき、という声は全体の1割未満だった。

 国際的な「死刑廃止」の流れとのギャップの理由は様々だろう。そもそも特定の宗教を持つ人が少ない、遺族・被害者感情を重視する人、命をもって償うべきと考える人が多い、一部外国のように「その場で射殺」といったケースが稀である等々。

 加えて、日弁連の主張が今一つ広がらないのは、どうしても彼らが被害者よりも加害者の人権を重視しているかのように見える、ということもあるのかもしれない。

 実のところ、日本では死刑囚に関する驚くべき判決が下されたことがある。

 百田尚樹氏の新著『偽善者たちへ』で紹介されているのは「死刑囚とパンまつり」についてのエピソードだ。

 ある時、名古屋拘置所に収容されている男性死刑囚が、「購入したパンに付いていた懸賞応募券の郵送を不許可とされた」ことで精神的苦痛を被ったとして、国を相手に賠償を求めるという裁判を起こした。

 拘置所が許可しなかったから、せっかくの応募券がムダになったことで、精神的苦痛を味わった、賠償金を払え、という請求である。

 この請求、地裁では却下されたものの高裁は死刑囚の訴えを認めて、国に2万2500円の支払いを命じる判決を下したというのだ。

 この件について、百田氏は以下のように述べている(以下、引用は『偽善者たちへ』より)

「世界中に暮らすすべての人たちに『人権』が認められる事は当然です。しかし、それは一般社会において善良に暮らしている人たちが対象であって、悪事を働いて、それも死刑が確定している極悪人にまでその範囲を広げる必要はないと私は思います。死刑囚は他人の『人権』を最も踏みにじる行為をした犯罪者です。その犯罪には情状酌量の余地もないということで死刑を言い渡された人間です。つまり国家によって『生きる権利』は認められないとされた存在です。そんな男が『春のパンまつり』に参加できなかったくらいで、国に文句をつけるなんて言語道断です。

 最近の刑務所は空調設備を完備したり、個室を増やすなど犯罪者の収監形態が以前と比べて格段に快適化していると聞きます。それもこれも犯罪者の『人権』への配慮が理由です。そもそも刑務所は誰もが入りたくない場所でなければならないのに、これでは逆効果です。

 衣食住が保障されている刑務所には餓死、凍死の心配がないので、年末になると一般社会でお金に困った人が、年を越すために刑務所に入りたいと犯罪に手を染める事件が毎年のように発生する、困った事態になっています。

 犯罪者を収容する施設には予算がつけられています。その原資は言うまでもなく税金です。そんなものに税金を使われるなんて、真面目な納税者にとっては正直に言って迷惑な話です。今回の判決を聞いて、この死刑囚となんら関係のない私ですらこれだけ不愉快なのですから、彼の犯罪の被害者やその遺族の方たちの憤慨ぶりは想像に難くありません」

 そして、死刑反対論者に対してこう説く。

「死刑反対派は人の命を人間が奪うことは何があっても許されるものではないと言いますが、よく考えていただきたい。死刑判決を受けるにはそれ相当の理由があります。殺人を犯したなら死をもって償えと言っているのです。現在の死刑判決は基本的に被害者が複数いないと下されません。これもおかしなことです。ひとり殺せばそれはもう十分に死刑に値すると思うのは乱暴なのでしょうか。2006年に奈良の小1児童殺害事件で死刑判決が出た(その後、執行)のは極めて例外的なケースですが、私にはこれが普通のことと思えます。

 なにかというと加害者にも人権があると言われますが、そもそも他人の人権を認めない者に人権を与える必要なんてありません。命を奪うということは最も被害者の人権をないがしろにしているということです。被害者遺族にしてみれば自らの手で仇をとりたいと思っても法治国家においてそれはできません。そんな遺族の思いを代行するものでなければ裁判の判決なんてなにも意味を為しません」

 こうした考え方は決して少数派ではなく、一定の支持や共感を得ていることが、世論調査の結果からも見て取れる。もしも廃止を求めていくのであれば、こういう立場の人たちをも説得できるような根拠、ロジックをさらに説く必要があるのかもしれない。

デイリー新潮編集部