台風19号「亡くなった息子の頑張りを知ってもらえたら…」実名公表されない遺族が取材に応じた理由

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「カギを開けておいて」

 地元の高校を卒業した涼平さんは、宮城県内の専門学校に進学。市の職員となったのは、まだ震災からまもない頃だった。

「多くの住民が街を去るなか、息子は地元の復興に力を尽くしたいという気持ちが強かった。私としても、息子のような若者が南相馬に戻ってくるのはいいことだと思っていました」(同)

 実際、未曾有の台風に襲われた12日も、涼平さんは市民のために奔走。河川の増水に備え、朝のうちから避難所を設置するために物資を運ぶなど、対応に追われていたという。

「息子はあの日、“役所に泊まる”と話していたんです。ただ、夜中の12時半頃になって、“今から帰るからカギを開けておいてね”と電話を寄越しました。翌日も仕事が立て込むので、職場から車で5~6分の距離に自宅がある息子を一旦、帰そうとなったようです。ただ、午前1時が過ぎ、1時半になっても息子は戻ってこない。その頃には携帯も繋がらなくなっていた。心配になって妻と車で探しに行くと、すでに道路は冠水状態。水嵩は1メートル以上ありました」

 不安を覚えた両親はすぐさま警察に通報。2時半過ぎに水没した車が発見される。だが、車内に涼平さんの姿はなかった。

「私は最悪の事態を覚悟しましたが、妻は“車から脱出してどこかに避難したんじゃないか”と最後まで希望を抱いていました。本格的な捜索が始まったのは、夜が明けた5時半頃。私が現場に戻ると、道路脇にブルーシートが目に入ってね。警察官に“ご家族の方ですか。確認をお願いします”、と言われたんです。息子は車からは脱出できたものの、すでに腰の高さまで水が押し寄せていて身動きが取れなかったんだと思います」

 涼平さんの葬儀には市長も足を運んだというが、

「亡くなった後で何を言われても息子は戻ってきません。人生これからという時期なので息子自身が一番悔しかったはずです。どうしてあんな時間に息子を帰したのか……。本当に疑問ばかりですよ。ただ、私が取材に応じたことで、少しでも息子の頑張りを知ってもらえた部分はあると思う。名前が報じられたお蔭で息子の友人からも励ましの連絡をもらいました」

(2)へつづく

週刊新潮 2019年11月14日号掲載

特集「国と自治体が責任の押し付けあい 『台風19号』実名を公表されなかった『犠牲者60人』の人生」より

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