漢文、三角関数…「不要論」は炎上のもと(古市憲寿)

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 学校での漢文の授業に対して「意味がない」とつぶやいた男性ミュージシャンがいた。彼の発言は専門家や識者から袋だたきに遭う。曰く、漢文の訓読は日本語の歴史の勉強でもある、過去の日本語を読もうと思ったら漢文は必須といった具合だ。

 当然の反応だろう。彼の発言には批判が集まって当然だ。それは義務教育で絶対に漢文を教えるべきだ、という意味ではない。僕も漢文を全員に教える必要はないと思っている。そうではなくて、「漢文」の代わりに何の不要論を唱えても炎上は避けられなかったと思うのだ。

 たとえば橋下徹さんが「三角関数を全員が学ぶ必要はない」と発言した時も、設計などには必要な知識だと多くの反論に遭っていた。同様に「地学」や「ダンス」がいらないと主張すれば、その道のプロからの批判が相次ぐだろう。

 一方で、今の学校で手薄な分野をカリキュラムに含めるべきだと熱弁する識者たちもいる。労働基準法をしっかり教えるべきだ、金融教育を徹底するべきだ、といった具合だ。

 意見はどれも一理ある。そうした授業があれば、ブラック企業に対して毅然と立ち向かえるかも知れない。株トラブルに巻き込まれる人が減るかも知れない。

 そもそも、世の中に「知って困ること」なんてほとんどない。もし義務教育が死ぬまで続くならば、無限にカリキュラムを増やしていくことができるだろう。欧米文化の根幹に関わるラテン語や古典ギリシア語も学べばいいし、現代物理学に決定的な影響を与えた相対性理論も勉強したらいい。

 しかし授業時間は有限なのだ。今のカリキュラムでさえ全員が理解・記憶できているわけではない。人は学校で教わることの多くを忘れてしまう。あらゆる情報の検索が容易になった時代、何もかもを学校で教えようとするのは不合理だ。

 僕自身、漢文はもちろん古文や現代文でさえ、学校で教えることに意味があるのか疑っている。ネットニュースのコメント欄などを読んでいると、とても国語の授業が機能しているとは思えないからだ。多くの人は「著者の意図」なんて汲めていないし、それで何も困っていない。せいぜい選択制でいい。

 こんな話を聞いたことがある。ある漫画家が「小説はいいなあ。教科書に載っていて、読み方まで学校が教えてくれるんだから」と言ったという。それに対して小説家は答えた。「逆ですよ。教科書に載っているせいで小説は勉強の延長だと思われてしまう。漫画がうらやましいです」。

 考えてみれば、漫画の読み方も、人の笑わせ方や励まし方も、恋愛や結婚の仕方も、学校ではきちんと習わない。だけど自然にできてしまうことがたくさんある。そして意欲があれば、人は何歳からでも学習することができる。それこそ漢文なんて大人の趣味に丁度いいと思う。漢文不要論に怒っていた人は教育に期待しすぎなのだ。学校ってそんないいもの?

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2019年11月7日号掲載

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