亡くなった瀧本哲史さんが遺していた「情報消費社会に必要な戦略」

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 投資家で京都大客員准教授でもあった瀧本哲史さんの訃報の伝わり方は、ネット時代ならではのものだった。亡くなったことを広く最初に伝えたのは、交流のあった投資家・作家のやまもといちろうさんのブログだ。

 8月15日のブログで、やまもとさんは、このように瀧本さんに向けての言葉を綴っている。

「安心して旅立つことなど人間にはできないのが本質ではありますが、その旅路が輝かしいものであることを、心から祈ります。ありがとうございました」

 問題は、死去といった直接的な表現を避けていた点である。読者はおそらくそうであろうと思いながらも、確信は持てない。そのため、このブログ更新直後から、ツイッターなどで訃報が拡散されていくのだが、あらゆる情報が大元を辿るとこのブログに行きつくという状況に。メディア各社も確認に走ったものの、結局、訃報が正式に報道されたのは、翌日の午後になってからだった。しかしこの時点ですでに多くのファンは、瀧本さんが亡くなったらしい、ということを知っていたのである。

 今回の場合、事実が先に広まっていたわけだが、逆の場合もある。つまりフェイクが拡散するという事態だ。

 流通する情報量が多くなればなるほど、その真贋を見極める能力が求められる――というのは近年よく言われる教訓である。瀧本さんは、かつて著書『戦略がすべて』の中で、このような情報消費社会における「教養」の大切さを説いていた。そこで述べられているのは、氾濫する情報に戸惑う現代人が肝に銘じるべきメッセージである。以下、追悼の意味も込めて、同書の「教養とはパスポートである」から抜粋して引用してみよう。

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 現在、情報消費に関する一つの流れと言えば、圧倒的な情報量の爆発である。インターネットが世の中にばらまかれたことによって、情報を発信するコストが大幅に低下し、誰でも簡単に情報を発信することができるようになった。

 個人の情報発信が爆発しただけではなく、旧来のメディアもスペースの制限がなくなったため、以前は編集段階でカットしていたような情報もネットで配信するようになった。その結果、テキスト情報も、音楽配信も、動画配信も爆発的に量が増えていった。

 そして消費者は常にスマートフォンという情報の入り口に接続され、絶え間なく情報がプッシュされるようになったのだ。

 常にネットワークと接続していることは、単にコンテンツとつながっているだけではなく、仕事やプライベートでの人間関係とも絶えずつながっている状態になる。

 即ち、現代人は過剰な情報と人間関係にさらされ、たとえ人間自身の情報処理能力が上がっているとしても(実際、歴史的に見れば、人間の話す速度、聞いて理解できる速度、読書速度は上がっている)、それを上回るスピードで刺激が増えているのだ。

 つまり、あらゆる人が情報処理速度を上回る刺激に悩まされる、そういう状況なのである。

心地よい情報環境の危険

 その結果、今、流行しているサービスは情報をたくさん集めるサービスではなく、情報をせき止めるサービスである。

 たとえば、現在多くの資金を集め爆発的にユーザーを増やしているネットサービスのカテゴリーは、「ニュースアプリ」と呼ばれるものだ。様々なニュースサイトから、その人が読みたいであろうニュースを選別し、それだけを読めるようにしたサービスなので、個々のニュースサイトに行って所狭しと並べられた膨大なニュースをいちいちチェックする必要がない。

 コンピューターやインターネットが膨大な情報を生み出している一方で、コンピューターアルゴリズムとネットワーク解析によって情報を制限させ、そのサービスが結果的に短期間で数百万人の利用者を集めるのに成功しているのはなんとも皮肉である。

 人間関係も同様だ。交友関係を広げることを提供価値としていたフェイスブックに代表されるSNSは、日常的なコミュニケーションツールとしての地位を失いつつある。むしろ、若者達が普段使うサービスは、少数の親しい友人達とのクローズなやりとりを楽しむLINEに移った。また、Twitterの隠れた人気機能は「ミュート」機能である。フォローを外すのは角が立つがツイートは表示させたくない、つまり「視界から消して、黙らせる機能」、それがミュート機能である。

 かくして、人々は再び自分の心地よい情報、人間関係を再確認する情報環境に回帰しつつある。自分の読みたい新聞を読み、聞きたい人の意見を聞き、見たいテレビを見る。

蛸壺型の社会認識からの脱出

 その結果起きたことが「蛸壺型」の社会認識の広がりである。心地いい情報、意見の合う人間としか付き合わないために、「私の周りはみんな私と同じ意見だ」「私の意見は間違っていない」と思ってしまうのだ。

 この顕著な例がネット右翼だ(特定思想に限らず、反原発、環境系、左翼系の運動にも同様の傾向がある)。同調する者が集まって互いを肯定しあい、同時に反対意見を批難し排除することで、こうした極端な考え方や一方的な見方はますます過激になっていく。

 インターネットによる情報爆発は、世界をつなげるという理想と裏腹に、自分の狭い認識をお互いに再確認しあうという真逆の社会を生むことにもなっている。

 この文脈までくると、なぜ今、教養が問題になるかが分かるだろう。教養の一つの機能は、アラン・ブルームの言葉を借りれば「他の考え方が成り立ちうることを知ること」にある。つまり、情報の爆発とその防衛による蛸壺化を経て、失われた普遍性を取り戻そうとする動き、これがすなわち「教養」ブームなのだと私は考えている。

資本主義社会を生き抜く武器

 拙著『僕は君たちに武器を配りたい』でも、バリバリの高度化した現代資本主義をテーマにしていたにもかかわらず、一見、それと最も遠いところにありそうな「教養」「リベラルアーツ」の重要性と復権を説いた。これには当然わけがある。

 現代の資本主義社会では、全てがシステム化され、分業により効率化が極限まで進み、個人がコモディティ化する。この中で、社会のつながりというものを再構築するのに必要になってくるのは、普遍性を持つ様々な考え方について思索をめぐらすことだ。この社会が共有している知識や思想、文化を持つことで、社会のつながりを再構築するのだ。

 また、常にイノベーションを作り出すことが資本主義の宿命だとして、その源泉はどこにあるのかと言えば、それも教養にある。多くのイノベーションは、他の異なる考え方を組み合わせることによって生まれる。そうなるとイノベーションを起こすための隠れた武器庫は、自分の知らない思考様式、学問体系、先端的な知識にならざるを得ないのだ。

自分と異なる思想に触れる

 こういう話をするとすぐに「教養」を身につけるためにはどのような本を読んだら良いか、書物のリストが欲しいといった注文が出てくる。実際、そうしたほうが「秋の読書週間のための教養」としては話が早いと思う。たしかに以前はドイツのレクラム文庫を範にした岩波文庫を読破すれば良かったのかも知れない。

 かつての日本においては、発展途上国の日本に進んだ他国の考え方を取り入れることが教養だった。明治以降の近代化においてそれは西洋の文化であったが、大昔は中国大陸での文化であり、漢文に通じることがすなわち教養だった時代もあったのである。

 しかし教養を、蛸壺を越境するための「パスポート」たり得る普遍的な思考様式として、言い換えれば様々な言葉遣いを身につけるための手段として考えるのであれば、岩波文庫では狭すぎる。

 それでは何が「教養」か。極端に言えば、それは「自分と異なる思想」全てを指す。

 自分が普段手にとらないような分野の書籍、雑誌を読むこと、普段自分がであわないような人がいる場所に行くこと(これは簡単に言えば外国だが、物理的に日本の外である必要もない。蛸壺化した社会においては、隣の家ですら「外国」であろう)。そういったことが、すなわち、「教養」を得るということになるだろう。

 異なる「種族」の文化を理解するという意味では、「教養」は「文化人類学」のアプローチに近いかもしれない。実際、マーケティングの最先端の世界では文化人類学のアプローチが消費者理解に活用されている。

 ブームが終われば、みんな「教養」なり「リベラルアーツ」のことなど忘れてしまうかも知れないが、これは情報の爆発と資本主義の高度化に対する処方箋として、繰り返し繰り返しキーワードになっていくであろうと、私は予想している。

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 訃報を受けて、瀧本さんの著書の売り上げが伸びているという。次の時代に向けての新しい教養として定着しているということなのだろう。

デイリー新潮編集部

2019年9月5日掲載

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