育てる「女王」育てられた「チャンプ」がつむぐ「支援の輪」 風の向こう側()

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 1カ月ほど前、この欄で『永遠の「女王」アニカ・ソレンスタム「真の偉業」』(2019年9月24日)と題した記事を書いた。世界の女子ゴルフ界を席巻し、メジャー10勝を挙げたスウェーデン出身のソレンスタム(48)が、現役引退後、米国で子どもたちや女子大生ゴルファー育成のために多大なる貢献をしているという話を紹介したばかりだ。

 こうした姿勢は、やはり超一流と呼ばれてきた選手たちには共通しているようで、「女王」の座をソレンスタムから引き継いだロレーナ・オチョア(37)も、ソレンスタム同様、引退後は若い選手たちの支援に力を注いでいる。

若手支援のファンド

 メキシコ出身のオチョアは、米アリゾナ大学を経てプロ転向し、下部ツアー(現シメトラツアー)を経て、2003年に一流の舞台である米LPGAにデビューした。

 以後、メジャー2勝を含む通算27勝を挙げ、女子ゴルフ界の女王として君臨していたソレンスタムに代わる新たな女王となり、女子ゴルフ界の頂点に立った。

 しかし、女王と呼ばれても、オチョアの謙虚な姿勢が変わることはなく、試合会場に入るたびに、コース整備スタッフの下で草むしりなどに従事しているメキシコ人労働者たちを集め、ドリンクやスナックを配ったり話をしたりして激励する姿が頻繁に見られた。

 そんなオチョアが、まだまだこれからと思われた2010年5月、28歳の若さで突然の引退宣言をしたときは、世界のゴルフ界が目を丸くして驚いた。母国メキシコに帰り、結婚して子育てをしたいと言ってからは、米プロゴルフ界にはほとんど姿を見せなかったオチョアだが、実を言えば、彼女が育てているのは、自身の子どもたち以外にも大勢いる。

 今から12年ほど前、オチョアはメキシコ人の知人らとともに、下部ツアーのシメトラツアーで腕を磨いていた2人のメキシコ人選手の経済的支援を開始した。

 その2人は後に晴れて米LPGAで戦うプレーヤーになり、数年後に現役から引退した。そして、その2人は、かつて下部ツアー時代に自分たちをサポートしてくれたオチョアらが続けている支援の輪に加わり、未来のメキシコ人選手たちを育てていくファンドを一緒に立ち上げたそうだ。

 オチョアを筆頭とするこのファンドが現在サポートしているのは、シメトラツアーや米LPGAを目指すメキシコ出身の若い女子選手たち14名。そして、そのサポートのための仕組みが、なかなかユニークだ。 

 試合に挑む際に必要となるエントリーフィーとして、まず450ドルを選手に支給する。選手は予選通過さえできれば、最低限の賞金だけは獲得できるため、その賞金から450ドルをファンド側へ返金するという「出世払い」方式だ。

 もちろん、選手たちの予選落ちが続けば、ファンドからの持ち出しばかりかさむため、支援グループそのものの運営や維持も大変である。そんな現状を知り、ミッシェル・ウィー(30)やナタリー・ガルビス(36)、ブリタニー・リンシコム(34)といった米国人選手たちが自費でメキシコシティまで出向き、オチョアらのファンドを支援している。

 さらには、ナンシー・ロペス(62)などメキシコ出身の往年の名選手たちも「何でも言ってちょうだい。できる限りのヘルプをするわ」と協力を申し出ているという。

 オチョアに女王の座を奪われたソレンスタムも、スキー界の女王リンゼイ・ボン(35)も「私たちも何でもするわ」という具合で、頼もしい援軍がどんどん増えて広がっている。

 経済的理由でプロへの道を諦めかけているメキシコ人選手たちを助けようと奔走しているオチョアらを、周囲の仲間、世界中の人々が助けようとしている。

 これが次代のゴルフ界の担い手を「育てる」ということなのだろう。子どもたち、若者たちをゴルフの世界で育成するとは、こうやって支援の輪を広げていくことなのだと、あらためて頷かされた。

「この子を育てなければいけません」

 米PGAツアーでは、別の形の「育てる」ストーリーが米国の人々の心に響いたばかりだ。10月半ばに開催された「ヒューストンオープン」を制し、31歳にして米ツアー初優勝を遂げたラント・グリフィン(米)は、ゴルフ界に身を置く人々やシステムに「育ててもらった」と感謝の涙を見せた。

 グリフィンはカリフォルニアで生まれ、バージニアで育った。父親マイケルはゴルフをしていなかったにもかかわらず、どうしてだか息子グリフィンが幼いころにジュニア用のハーフセットを買い与えたそうだ。

 グリフィンはすぐにゴルフに夢中になり、近所にあった9ホールの市営コースに毎日歩いて通い、自己流で練習し、1日45ホール回ることもあった。

 グリフィンが8歳になったとき、父親マイケルは一念発起して近所の一流プライベート・コースに息子を連れていき、レッスンプロのスティーブ・プレイターのレッスンを受けさせた。

 とはいえ、グリフィン家の経済力では、プレイターのレッスンを頻繁に受けることはできず、グリフィンは大半の日々を安価な市営コースの芝の上で1人で過ごしていたという。

 ある日、プレイターがいつものようにメンバーたちにレッスンをしていると、クラブの係員が飛んできて、こう言ったそうだ。

「スティーブ、キミの教え子だという少年が1人で来て泣いている」

 驚いたプレイターがレッスンを中断してクラブハウスに行ってみると、物陰に座って泣いていたのはグリフィン少年だった。

「あの子は泣きながら私に飛びついてきて、『ダディ(父親)が死んじゃった』と言った。私はその足でクラブのジェネラル・マネージャーのところへ行き、『この子は私の教え子です。私たちこのクラブが、この子を育てなければいけません。育てます』と伝えました」

「僕はあの日のことを生涯忘れない」

 以後、プレイターはグリフィンをしばしば自宅に連れて帰り、自身の息子とともに、文字通り、息子のように「育てた」という。グリフィンとプレイターの息子は2歳違いで兄弟のように仲良く育ち、ゴルフの練習も、映画を見に行くときも、どんなときも一緒だったそうだ。

 バージニア州内の大学入学後は、グリフィンはプレイターから離れて独立。大学卒業後、2010年にプロ転向し、ミニツアーや下部ツアーの「コーンフェリーツアー」、「PGAツアー・ラテンアメリカ」などを転戦したが、なかなか成績は上がらなかった。転戦費用や経費ばかりがかさみ、一時はカードローンが300万円超まで膨らんだ。

「もうゴルフを辞めようと何度も思った」

 そんなグリフィンを救ったのは、仲間のプロたちと米PGAツアーという巨大な組織のパワーだった。

 2014年の夏。グリフィンの経済的困窮を知った友人のウィリー・ウィルコックスが「オレのキャディをやらないか?」と声を掛け、グリフィンは米PGAツアーの「グリーンブライアー・クラシック」という大会でウィルコックスのバッグを担いだ。

 ウィルコックスは見事4位タイに食い込み、莫大な賞金の10%がキャディをしていたグリフィンの懐に転がり込んだ。その額は1万7000ドル。借金の半分以上を一気に返済できる金額に、グリフィンは心底救われた思いだったという。

「僕はあの日のことを生涯忘れない」

 借金のプレッシャーが大幅に軽減され、気持ちが楽になるにつれ、グリフィンの成績は向上していった。2015年にPGAツアー・ラテンアメリカで1勝、コーンフェリーツアーで2勝を挙げたグリフィンは、ようやく米PGAツアー入りを果たした。

 だが、シード落ちを喫して逆戻りしたこともあった。それからもいろんな山谷があったが、グリフィンは自分を育ててくれた父親代わりのプレイターやツアーの仲間、ツアーの組織と財力に感謝し、恩に報いたい一心でゴルフクラブを振ってきた。そして、ヒューストンオープンで、ついに初優勝を挙げた。

「僕を育ててくれた人々には、どれだけ感謝しても感謝し切れない。プレイターが居てくれなかったら、僕の人生はノー・チャンスだった」

 育ててくれて、ありがとう――グリフィン同様、感謝の気持ちでいっぱいの若者が、アメリカにもメキシコにも世界にも大勢いることが素晴らしい。

「育てる」人々がいるからこそ、新たな選手が「育つ」。そんなゴルフ界は、とてもとても温かい。

舩越園子
ゴルフジャーナリスト、2019年4月より武蔵丘短期大学客員教授。1993年に渡米し、米ツアー選手や関係者たちと直に接しながらの取材を重ねてきた唯一の日本人ゴルフジャーナリスト。長年の取材実績と独特の表現力で、ユニークなアングルから米国ゴルフの本質を語る。ツアー選手たちからの信頼も厚く、人間模様や心情から選手像を浮かび上がらせる人物の取材、独特の表現方法に定評がある。『 がんと命とセックスと医者』(幻冬舎ルネッサンス)、『タイガー・ウッズの不可能を可能にする「5ステップ・ドリル.』(講談社)、『転身!―デパガからゴルフジャーナリストへ』(文芸社)、『ペイン!―20世紀最後のプロゴルファー』(ゴルフダイジェスト社)、『ザ・タイガーマジック』(同)、『ザ タイガー・ウッズ ウェイ』(同)など著書多数。最新刊に『TIGER WORDS タイガー・ウッズ 復活の言霊』(徳間書店)がある。

Foresight 2019年10月23日掲載

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