「表現の不自由展」中止騒動について、改めて津田大介氏に聞いてみた

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「表現の自由」をもてあそび、安売りした結果がこれである。「あいちトリエンナーレ」で勃発した展示中止騒動は、せっかくの国際的芸術祭に泥を塗る結果になってしまった。

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「3年に1度」。イタリア語のトリエンナーレを直訳すると、そんな意味になる。3年ごとに開かれる芸術祭のことを指すようになったのは、ミラノ・トリエンナーレが最初だが、2010年に始まった「あいちトリエンナーレ」は、今年で4回目。伝統はないけれど、ゆるキャラも“作品”として認められるなど、いまや日本最大規模の芸術祭なのだ。

 その、あいちトリエンナーレが大炎上し、「展示中止」事件が勃発したのは数々報じられ、ご承知の通りである。改めておさらいしておくと、そもそもの発端は、津田大介氏(45)が芸術監督に起用されたことだ。インターネットに詳しいジャーナリストとして知られ、トレードマークは金髪。政治スタンスはリベラルで、最近は大学教授や朝日新聞の論壇委員として招かれたりもしている。

 だから「芸術」という殻にこもった世界を破ってくれる期待があったのかもしれない。トリエンナーレの芸術監督に就任したのは2017年のことである。それから、3年かけて準備してきた「あいちトリエンナーレ2019」が開幕したのは8月1日。今回は津田氏の発案で、作家の男女比を半々にすることや、社会問題を扱った作品を多く出品するなどの試みが、早くから話題になっていた。

 ところが、開幕前日になって出展作品の一部が明らかになると不穏な空気が流れる。それが、「表現の不自由展・その後」という企画展だった。いわばトリエンナーレという大きな美術展の中に、独立した美術展があると思えばいい。

「これは、トリエンナーレにおける目玉企画のひとつで、もともと『表現の不自由展』として運営されていた私設展覧会を発展させたものです。展示するのは過去に公立美術館で展示拒否になったり、撤去されたもので、民間のギャラリーしか相手にしてくれない作品ばかり。それを、津田さん自身が、展覧会の主催者を口説き落とし、トリエンナーレに持ち込んだというわけです」(愛知県庁の関係者)

 が、あいちトリエンナーレも立派な公的イベントである。愛知県と名古屋市が補助金を出し、今回も10億円近くの予算がついている。まだ金は出ていないが、文化庁の助成事業でもある。物議を醸しそうな雰囲気が漂う中、それでも突っ走ったのは、大村秀章知事が「政治家が文化事業に口を出すのは好ましくない」と鷹揚な姿勢を示したからだろうか。

 企画展で、まず問題になったのは「慰安婦像」。着色してあるが、ソウルの日本大使館前に鎮座している、あの像と同じ作家の手によるものだ。名前は「平和の少女像」と称しているが“反日プロパガンダ”の道具になっているのはご存じのとおり。7年前に東京都美術館で展示されたが、やはり問題になって撤去された。展示が報じられると、トリエンナーレの事務局にはオープンの前日から抗議が殺到した。

 そして開幕初日、怖いもの見たさに会場を訪れた観客は、さらに異様なものを目にすることになる。

突然の打ち切り

 その場所に慰安婦像が鎮座していたのはもちろん、近くに置かれたモニターには昭和天皇の御影がバーナーでメラメラ焼かれてゆく様子が映っていたのだ。

 作者は大浦信行氏。1986年に、やはり天皇をモチーフにした作品を富山県立近代美術館に出品したところ、県議会で問題にされた人物だ。結果、作品は非公開にされ、図録は焼却処分になった。美術界では「天皇コラージュ事件」と呼ばれている。今回、その作品に追加する形で展示されたのが前述の映像だった。

 企画展では、他にも靖国参拝批判の俳句を貼りつけたモニュメントなど、「展示禁止」になった作品がずらりと並べられた。

 常識で考えれば、これが問題にならないわけがない。8月2日になると、河村たかし名古屋市長が、「事実ではなかった可能性がある」と慰安婦像の撤去を要求。トリエンナーレ事務局には火がついたように批判が殺到し、「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」というファックスまで届いた。翌3日、とうとう津田氏と大村知事は、展示の打ち切りを発表する事態に追い込まれたわけだ。

 一方、突然の中止を知った企画展の実行委員会も黙ってはいない。同日夜に会見を開き「戦後最大の検閲事件が起きた」、「法的手段も辞さない」と主催者側や津田氏との全面対決の姿勢を見せたのだ。

 もちろん、タブーに挑戦するのも芸術の役割だろう。だが、今回の出しものは前述の通り。トリエンナーレの関係者たちは並べられた作品を見て、抗議が寄せられるなど大騒動になることを予想できなかったのか。

 そこで改めて津田氏に聞くと、

「いろんなことが思うように進まなかったのが大きかったと思っています」

 と言うのだ。

“すごいのが来ちゃったな”

 津田氏が続ける。

「私が最初に『表現の不自由展』を見たのが、2015年のことでした。これは意義があると思っていたところ、昨年6月に主催者の一人の公開イベントがあって、主催者にトリエンナーレに参加してほしいと声をかけたのです。しかし、実行委員会のメンバーと連絡がついたのは今年の3月になってから。そもそも、ITに強い方々ではなく、チャットアプリの『LINE』も使っていない。連絡はメーリングリストのやりとりです。また、メンバーは5人いるのですが、すべてが合議制で、全員が一致しないと何も始まらない。そのために契約もなかなか結べないとか、いろいろなことが決められなかった。もちろん、実行委員の5人が今回のことで非常に怒っているのはよく分かっていますが」

 昭和天皇の御影をバーナーで焼く映像を展示したことについて聞くと、

「展示する作品を選ぶ過程で、作家の大浦(信行)さんが、“過去の作品の続編のような映像を作りたい”と言ってきたのです。本来は、公設の美術館で展示を断られた作品だけですから、コンセプトが違うのですが、納得してくれない。それなら“関連展示”ということだったらギリギリやれると考えた。でも、出来上がって来た映像を見て、“すごいのが来ちゃったな”と驚きました。ただ、私としては『表現の不自由展・その後』の実行委員会が決めたことには立ち入らないことにしたのです」(同)

 一方で津田氏は、実行委員会に展示してほしい作品(会田誠氏の「檄」)があると要望していたが、逆に断られてしまったという。

「つまり、私は『表現の不自由展・その後』の作品を検閲しなかったのに、私が検閲されてしまったということ。それはダブルスタンダードじゃないかと伝えました。お互いに“溝”が出来ていたのは確かです」(同)

 志を同じくしているはずだったのが、いつの間にか、お互い不信感を募らせていたのである。

(2)へつづく

週刊新潮 2019年8月15・22日号掲載

特集「『慰安婦像』と『昭和天皇の御影焼却』に公金10億円が費やされた『表現の不自由展』にあの黒幕」より

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