元スマの次は宮迫? 脱ジャニ「田原俊彦」、脱吉本「サブロー・シロー」はこう干された

エンタメ 芸能 2019年7月23日掲載

  • ブックマーク

吉本興業でもあった追放

 ジャニーズと同様に、独占的な業界支配力を持つのが吉本興業である。

 今や吉本所属の芸人は6000人もいるとされ、年々、お笑い業界に対する影響力が増している。ところが先ごろ、事務所を通さない「闇営業」を反社会勢力との間で行った問題で「雨上がり決死隊」の宮迫博之と「ロンドンブーツ1号2号」の田村亮が行った謝罪会見で吉本への不信感と吉本幹部から圧力を受けていたことを明かし、大騒動に発展している。

 宮迫はすでに吉本との契約を解除され、田村は吉本所属だが、無期限謹慎中の身。2人とも吉本と敵対している中で今後の芸能活動への展望は開けていない。

 吉本を辞めた芸人はどうなるのか。典型的なのが漫才コンビの「太平サブロー・シロー」のケースだ。

 サブロー・シローがデビューしたのは1976年のこと。2人はもともと松竹芸能に所属していたが、吉本興業制作の『ヤングおー!おー!』(毎日放送)に出演したいという思いから、吉本への移籍を画策。だが、当時、吉本と松竹は芸人の引き抜きを禁じる協定を結んでおり、移籍は難しかった。そこで、師匠の「レツゴー三匹」から破門されたことにし、吉本への移籍を実現したという。

 その後、80年代の漫才ブームに乗って人気漫才コンビとしての地位を確立したが、88年、突如として吉本興業から独立した。

 何度かの話し合いを経て、サブロー・シローの辞意が固いことを知った吉本の冨井善則制作部長(当時)は「お前ら、自分が思うとるほどたいした芸人やないよ」と言い放ったという。

 記者会見でサブローは、こう述べた。

「芸人はナマモノで、電気製品じゃない。これまでは線路の上を自分たちの意志ではなく、無理やり走らされている感じでした。これからはやりたい仕事を選んでやっていきたい。夢を追うのが芸人の仕事です」

 吉本に対する不満は2年前からあったという。後にサブローは独立の理由について、こう述べている。

《当時(明石家)さんまさんが東京で暮らし始めたり、(島田)紳助君も東京へ進出したり、関西の芸人さんが東京に居を構えて、東京で勝負しようという風潮があったんです。(中略)ところが、会社は『オール阪神・巨人』さんと僕とこは、大阪に残って漫才の灯を守れ、と命令形で言うんですわ。(中略)そのときは、『なんでオレらだけ大阪に残って漫才をせなあかんのや』みたいな気持ちばかりが強くて、会社に交渉しに行ったんです、『なんとかなりまへんか』と。ところが、交渉の過程で歯車が悪いほうへ、悪いほうへと転がって》(『週刊宝石』93年9月9日号)

 当時、漫才ブームを経て吉本興業は大阪の芸能界を制圧していた。退社後、サブロー・シローは吉本制作の番組3本で降板となり、6月20日に出演を予定していた『2時のワイドショー』(日本テレビ)が突然、中止となり、吉本による圧力が噂された。吉本の中間搾取がない分、ギャラの取り分は増えたが、徐々にサブロー・シロー排除の動きが強まっていった。

 結局、吉本が支配する大阪をあきらめ、東京に活路を見出そうと89年に東京に事務所を設立した。だが、92年に吉本の東京事務所が東京支社に格上げされ、本格的な東京進出が始まった。次第に東京でも吉本の手が回るようになった。

 仕事が行き詰まったことでサブロー・シローは不仲になり、92年にコンビを解消。そして、独立から93年、サブローが全面降伏し吉本に復帰した。

 島田紳助とオール巨人らに付き添われて吉本興業本社を訪れたサブローは、同社幹部に深々と頭を下げ、「すんまへんでした」と詫びた。

 吉本興業はサブローに対し、復帰の条件として次の7カ条を突きつけたとされる。

(1) 3ヶ月はノーギャラとする。
(2)吉本を通さない営業(アルバイト)をしない。
(3)吉本内で独立をする動きのあるタレントがいれば、その説得役を引き受け、それを使命とする。
(4)今後、吉本への不満を一切口にせず、独立という思想をもたない。
(5)2週間以内に吉本の会長だった故・林正之助の墓参りに行く。
(6)無条件降伏します。
(7)明石家さんま、オール巨人、島田紳助が保証人となる。

 吉本復帰を許されたサブローは、「心配事がなくなって、自律神経失調症が治ってしまいましたワ」と周囲に話していたという。

 97年には、シローも吉本と和解を果たした。彼は意固地になって、タレントを廃業し、大阪でパブを始めていたが、心配した島田紳助が吉本に掛け合った。吉本に筋を通したシローは、本名の伊東博の名で紳助の番組の放送作家として芸能界復帰した。その後、大平マサヒコ(現太平まさひこ)と漫才コンビを結成し、舞台に出演するなどの芸能活動も行ったが、12年2月に大阪市内の事務所で倒れ、死去した。晩年は、絶縁状態にあった元相方のサブローと和解できたという。

 お笑い業界を支配する吉本には、ことほど左様に絶大な力があるのだ。

 宮迫らについていえば、まだ状況は流動的であり、今後の展開は予断を許さない。近年、芸能事務所とタレントのトラブルが相次いでいることを考慮すると、芸能界全体を巻き込んだ、さらに大きな紛争に発展するかもしれない。

文/星野陽平(フリーライター)

週刊新潮WEB取材班編集

前へ 1 2 3 次へ

[3/3ページ]