元スマの次は宮迫? 脱ジャニ「田原俊彦」、脱吉本「サブロー・シロー」はこう干された

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「紳士のなさることではない」訴え

 山本は1950年代から60年台にかけて活躍した「日本一の美女」である。

 山本は50年に第1回「ミス日本」に輝き、53年、大日本映画製作(大映)に入社した。審査員を務めていたのは、先の長二郎のケースにも登場した永田雅一。大映は、永田が立ち上げに深く携わった会社で、当時は社長の座に就いていた。

 その大映で山本は103本の映画に出演し、「日本を代表する女優」としての地位を築いた。転機となったのが、結婚だった。

 62年1月、作曲家の山本丈晴との結婚を控えていた山本は、結婚生活と女優業の両立を不安に思い、自由のきくフリーへの転身を永田に相談した。すると、永田は、「そんなことを言わずにもう1年とにかくやってごらんなさい。1年やってみてやっぱり無理だと分かったら、来年フリーにしてあげましょう」と言った。

 だが、大映の専属女優としての生活はあまりに忙しく、1年後、山本は永田に再び、フリー転身の相談をした。永田は完全なフリーではなく、決められた本数全部をまず大映でこなした後で他社出演を認める「優先本数契約」を打診し、山本もそれを了承した。

 ところが、それから1週間ほどして急に永田の態度が変わり、山本に「専属かフリーかのどちらかを選べ」と二者択一を迫った。山本が、恐る恐る「フリーになったら、もう映画に出られなくなるんじゃないですか?」と念を押すと、永田は「俺をそんな小人物と思うか?」と怒った。山本は大映を退社し、63年3月にフリーを宣言した。

 その結果、山本は一切、映画に出演できなくなったのである。「日本を代表する女優」とまで言われながら、映画出演の依頼はまったく来ず、舞台出演の機会まで閉ざされた。これが五社協定の威力だった。

 当時の山本は、『週刊平凡』64年1月9日号のインタビューで次のように映画界を批判している。

《がんこに自分を主張してばかりいないで、永田社長のとこにおわびにいった方がいい、と忠告してくれるかたもいます。

 けれども、わたくしが約束ごとを破ったりしてまちがったことをしていれば、もちろんお許しをうけにまいりますが、そうではないのですから、ただわけもわからずに頭をさげることはわたくしの俳優としてのプライド、信念が許しません。

 わたくしがフリーになることを好まないのならば、永田社長は契約更新のときに、フリーになるのは認めないと主張してくださればよかったのです。いったんはたいへん紳士的に認めてフリーにしておいて、あとあとまであらゆる手をうってわたくしの俳優として生きる道をとどめてしまおうとなさるやりかたは、紳士のなさることではないと思います。

 おまけに、大映一社だけではなく、他の社までが永田社長の考え方に同調しているように見えるのは、フリーにはなったけれども、映画にも舞台にも出演できないという状態にわたくしを追いこんでおいて、フリー志願のほかの俳優さんへのみせしめにしているのだ、としか考えられないのです》

 映画界から追放された山本は、その後、テレビ女優として復帰し、やがて舞台に活動の軸を傾けていったが、その後映画に出演することはなかった。映画界はあまりに惜しい人物を失ったのである。

森進一問題

 五社協定のような引き抜き防止カルテルは、テレビ界でも導入された。

 草創期の芸能界では、ギャラの配分などでタレントと所属事務所が揉め、独立や引き抜き事件が相次いでいた。

 そうしたトラブルに終止符を打つべく、渡辺プロダクション社長・渡辺晋が音頭を取って1963年に設立したのが、日本音楽事業者協会(音事協)だった。音事協も五社協定同様、タレントの引き抜き防止で団結し、独立問題に対しても協調して阻止した。

 芸能界史上で最大の追放事件とされるのが、渡辺プロに所属していた歌手の森進一のケースだ。

 79年、森進一はデビュー以来、13年所属した渡辺プロから独立を果たした。74年にリリースされた『襟裳岬』以来、これといったヒットが出ず焦っていた森は、「渡辺プロに問題があるのではないか?」という疑念を持った。押し付けられた歌ではなく、自分で選んだ歌を歌いたいと考え、独立を志向するようになっていった。

 森の所属していた渡辺プロは、芸能事務所のパイオニアであり、業界一の名門である。だが、当時は渡辺プロ以外の芸能事務所も勢力を伸ばし、渡辺プロの業界での影響力は低下していた。そこで、森は「渡辺プロに自分を潰す力はない」と判断したようだ。

 ところが、独立した森は見事に干される。レコードを出せなくなり、テレビ出演も激減した。

 その理由は、渡辺プロ以外の芸能事務所も協調して“森潰し”に加わったためとされる。

 タレントの独立を歓迎しないのは、どの芸能事務所でも共通する考えである。森の独立をあっさり認めてしまえば、雪崩現象が起きかねず、業界全体にとって死活問題となる。そこで音事協が業界の意思を体現して、テレビ局などに「森を使わないでしょうね」と圧力を加えていたと言われている。

 とはいえ、独立から半年後には念願の独立後第1作目のシングル『新宿・みなと町』がリリースされ、TBSの『ザ・ベストテン』で9位にランクインするほどヒットした。

 これに気を良くした森だったが、ここで新たな問題が発生する。森が、他の歌手やタレントに対し、自分のように独立するよう、“そそのかした”といわれたのだ。当時、名前が取り沙汰されたのは、サンミュージック所属の都はるみや、芸映プロ所属の西城秀樹らだった。

 実際、森のアドバイスを受けて独立の動きを見せたタレントもいたらしく、芸能事務所の経営者たちを怒らせた。音事協の総会では「あんな男はこの世界にいてもらいたくない」という声も上がった。

 この影響で、80年6月ごろより、芸能界に森との共演拒否の動きが広がった。「森進一の出演する番組には、いっさいうちの所属タレントは共演させません」と、多くの芸能事務所が言い出した場合には、森のテレビ出演は絶望的になる。

 共演拒否の動きが広まったのは、その直後に控えていた森と大原麗子の結婚披露宴を潰す狙いもあったようだ。

 披露宴では、本来なら出席すべき有名タレントが軒並み欠席し、白けた雰囲気になった。森と同じ鹿児島県出身で、仲人を務めた自民党の山中貞則代議士は、

《私は独禁法の権威でありますが、仮に事業者団体が特定の者を排除しますと、独禁法が発動されることになる。芸能界でも、もし同じようなことがあれば当然、独禁法にふれるわけで、私が媒酌人になった以上はこの二人についてずっと責任をもって後見人となります》(『週刊ポスト』80年7月11日号)

 と異例の挨拶をしている。とはいえ、当時の公正取引委員会は森潰しで団結する芸能界を摘発せず、森は再びテレビから姿を消したのだった。

 81年に森と渡辺プロが業務提携の契約を結び、渡辺プロが森の興行をすべてマネジメントすることとなり、手打ちをしたが、音事協との対立は解消せず、その後も森潰しの動きがたびたび取り沙汰された。

干されたトシちゃん

 さて、今回、公取委からの注意で注目を集めたジャニーズ事務所は、音事協には加盟していない。ジャニーズは男性アイドル市場では独占状態であり、マスコミに対する影響力も強い。ジャニーズ単独でタレントを潰すだけ実力があるため、業界団体に加盟する必要がないのだ。

 もちろん、ジャニーズを辞めたタレントには過酷な運命が待ち受けている。例えば、田原俊彦のケースが有名だ。

 94年2月17日、田原は長女の出産報告会見を行った。会見の席上、田原は、「マスコミ嫌いの田原のために、こうしてお集まりいただいて本当にありがとうございました」「また、(結婚式に)来ないでよ。疲れるんだから。嫌いなんだから、僕はみんな(記者陣)のこと」などと語り、終始、不機嫌だった。そして、最後にこう発言した。

「何事も隠密にやりたかったんだけど、僕ぐらいBIGになっちゃうと、そうはいきませんてのがね、よく分かりました」

 これに対し、マスコミは「思い上がるな!」という非難の大合唱を浴びせた。

 田原といえば、79年に『3年B組金八先生』に出演し、共演した近藤真彦と野村義男とともに「たのきんトリオ」としてブレイク。翌年には『哀愁でいと』で歌手デビュー。80年代を代表するアイドルとして活躍した。また、80年代後半は『ラジオびんびん物語』『教師びんびん物語』(ともにフジテレビ)がヒットし、俳優としても頭角を現し当時のジャニーズを代表するタレントになった。

 だが、「BIG発言」の頃には、人気に陰りが出ていた。さらに発言が猛烈に叩かれたために、田原のイメージは極端に悪化し、翌95年の『an・an』(マガジンハウス)では「嫌いな男ランキング」で1位となった。彼の芸能活動は長期間にわたり低迷し、事務所を転々と渡り歩いた。

 世間的には「BIG発言」が田原の人気低迷の原因だとされているが、「BIG発言」は凋落のきっかけにすぎない。実は、田原は「BIG発言」直後の94年3月1日に、18年所属したジャニーズ事務所を独立していたのである。

 独立の背景には、ジャニーズとの確執があったと言われている。独立の前年、93年にはそれまで毎年行われていた田原のコンサートツアーが中止され、同年10月に夫人と入籍した際は事務所からの発表はなく、長女出産の会見でも事務所関係者は姿を見せなかった。

「BIG発言」に対するマスコミの過酷なバッシングには、ジャニーズ事務所という後ろ盾がなくなった田原に対する“溺れる犬は石もて打て”という意識が強く働いていたことは、想像に難くない。

 マスコミの“田原攻撃”の動きはその後も続いた。独立した直後には、週刊誌が“田原が薄毛治療を受けている”と報じた。記事によれば、情報源は「ある芸能プロ関係者」だという。

 実際、田原自身が、独立後の仕事にやりにくさについて次のように語っている。

《ジャニーズにいたほうが安泰だったとは思います。事務所を離れてからは、テレビ局のプロデューサーとかがビビって“田原俊彦とジャニーズのタレントを一緒の番組には出せない”なんてことが起きました。わざわざ去った人に協力する必要はない。ジャニーズ帝国というのは、外に出て行く人間に対しては絶対的にNOなんですよ》(『週刊女性』09年6月9日号)

 テレビ局の「自主規制」は長らく続き、田原はジャニーズの見えない手に悩まされたが、13年8月のイベントではメリーからの手紙が届いたことを明かしている。手紙には、直筆でこう書かれていたという。

「(ジャニーズの)若い子たちが、トシの歌を歌っています。よかったら、今度観にきてください」

 この時、田原がジャニーズから独立してから、19年が経っていた。

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