国民的大女優が「新宿2丁目」でスナック・ママをやっていた頃

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 新宿2丁目といえば、現在ではすっかりゲイバー等が乱立するLGBTの街として有名になっている。テレビのバラエティ番組でも、よく取り上げられるので、全国区の知名度を獲得していると言ってもいいだろう。

 しかしながら、国の特区でも何でもないので、街には他にもいろいろな顔がある。ここでゲイバーを経営する作家、伏見憲明氏の新著『新宿二丁目』には、意外な大女優がスナックのママをやっていた、という秘話が紹介されている。時代は昭和30年代半ば。赤線の廃止により、2丁目界隈はかつての賑わいを失っていた頃の話である。

 以下、同書より引用してみよう。

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 乙羽信子といえば、私の世代にとっては橋田壽賀子のドラマ「おしん」で主人公おしんの中年以降を演じた演技派女優、という印象だ。もっとずっと上の世代になると、宝塚歌劇団の戦後の全盛期を支えた娘役、あるいは大映映画で清純派ヒロインを演じたトップスターということになるだろう。そんな大女優が新宿2丁目でスナックのママをやっていたことはほとんど知られていない。店は仲通りを挟んで現在のルミエールの斜向かい付近にあった。

 ということを知ったのは、国立国会図書館で古い大衆紙「日本観光新聞」のマイクロフィルムを回しているときだった。1960年12月26日付の1面に「人気スターの商法」という記事が大きく掲載されていて、そこに「100万ドルのエクボの乙羽信子さんが昨年9月新宿二丁目にバー“カジ”を開店した。壁には“白鳥の湖”のバレー写真があり新宿にしてはまじめなほどのふんいきだが信子さんは仕事の合い間に必ず顔を出してサービスにつとめている」とあり、ボックス席で若い客にお酌をしている写真が掲載されている。たったそれだけの内容の記事だったが、乙羽信子の出店にはとても興味を惹かれた。

 まず、なんで大スターがスナックのママとなり若い客にお酌までしてみせるのか、ということと、それがどうして新宿2丁目なのか、という点だ。スナック“カジ”に関する情報を調べてみたが、週刊誌の記事にも、乙羽信子の自伝にも出ておらず、住宅地図で所在地を確認できただけだった。

 推測してみるとこういうことなのかもしれない。当時(1959年)の乙羽信子は愛人関係にあった新藤兼人監督を追って大映を退社し、新藤の独立系映画会社の同人であった(新藤とは晩年になって正式に結婚)。「原爆の子」「第五福竜丸」といった名作に出演して女優としての評価は高まったが、スター生活からは一転、生活に困るほどであった。バーを開店する数年前に(当時、国交がなかった)中国の映画祭に招かれたときのことを、後年、自伝に綴っている。

「帰国におよんで私はヒスイを何個か買ってきた。そのヒスイが、帰国後、役に立った。私の生活苦を助けてくれたのだった。『この宝石買ってください』と売りに歩いたものである。

 宝塚時代、家を建てるのに借金したときは恥ずかしくて顔がほてった。しかし、ヒスイを売るときは平気だった。それだけ貧乏が板についていたからだろう。

 いま、あのときのヒスイは一個もない」(『乙羽信子どろんこ半生記』)

 大スターだった乙羽が宝石を売り歩いたというのも驚きだが、その時代はまだテレビドラマははじまったばかりだったし、女優としては大手映画会社に干されたら十分な収入を得られなかったのだろう。それで仕方なく水商売に手を出したに違いない。たぶん、そんな有様だから開業資金にも苦労していたはずで、だから赤線廃止でひと通りが消え、賃料も安くなっていたであろう新宿2丁目に店を借りたのではないか。

 そう、零落した女優がスナックを開業するような街になってしまっていたのである、当時の新宿2丁目は。

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 現在、NHK(BSプレミアム)では名作「おしん」が再放送中だ。大女優の貧乏時代を知って見ると、また味わいも一層増すかもしれない。

デイリー新潮編集部

2019年7月10日掲載

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