日比関係を強める「ミンダナオ和平」日本の貢献 新・日本人のフロンティア(1)

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 今年4月、フィリピンを訪ねた。JICA(国際協力機構)理事長になってから3度目で、一番多く行った国の1つである。東京でもロドリゴ・ドゥテルテ大統領をはじめとしてフィリピン要人とは何度も会っているので、一番接触の多い国と言ってもよいだろう。

 フィリピンは面積が約30万平方キロ、人口が約1億人で、どちらも日本の約8割である。しかし人口増加率は高く、日本の人口を超えるのは時間の問題である。経済成長もめざましく、この点でもJICAはいろんなかかわりを持っている。しかし、今回はミンダナオ和平を中心に、ミンダナオについて書きたい。

「モロ」と呼ばれたムスリム

 フィリピンは7000を超す島から成り立っている。一番大きいのは北のルソン島で約10.5万平方キロ、二番目が南のミンダナオ島で、約9.8万平方キロ、ルソン島が国土の35%、ミンダナオ島が32%を占める。2つの島の真ん中にあるのがヴィサヤ諸島で、観光で有名なセブ島や、太平洋戦争中、激しい戦争があったレイテ島は、ヴィサヤの中にある。

 西洋がフィリピンを発見したのは1521年、マゼランの世界一周艦隊が、セブ島にたどりついたときである。その後、スペインは1565年にセブ島を領有し、1571年にはマニラを植民地首府とした。それから、1898年の米西戦争に敗れるまでフィリピンを領有し、それ以後フィリピンはアメリカの植民地となった。

 スペインより前に、この地に来たのはムスリムの勢力だった。ミンダナオ島にイスラム教が伝わったのは14世紀のことだと言われている。15世紀にはスルタンを擁する王国(スールー王国など)が存在していた。したがって、マゼランの一行がフィリピンに来たとき、すでにムスリム勢力はいたわけである。

 ムスリムを発見したスペイン人は、さぞ驚いたことであろう。なぜなら、イベリア半島は8世紀にムスリムの勢力下に入り、これに対し、キリスト教勢力が奪回をはかり、1492年にいたってムスリムをイベリア半島から駆逐したばかりだったからである(レコンキスタ)。当時、スペイン人は、ムスリムのことをモロ(ムーア人)と呼んでいた。それゆえ、フィリピンでもムスリムをモロと呼んだ(ただし、モロという言葉には、差別的なニュアンスがあるので、あまり使わない方がいいらしい)。

 スペイン領有下のフィリピンでも、南部におけるムスリムの勢力は根強く、スペインの影響力は限定的だった。

 しかし、1898年以後、アメリカはミンダナオを軍事的に制圧し、そのもとで多くのキリスト教徒がミンダナオに入植し、政治的・経済的・社会的支配を強めた。とくに土地登記制度に不慣れなムスリムから土地を奪取していったと言われる。

 さらに第2次世界大戦後、フィリピン共和国が独立すると、国民統合、単一国家化が進み、ムスリムとキリスト教徒の接触がさらに増え、1960年代末から武力紛争が頻発するようになった。

 ムスリムはフィリピン人口の5~6%で、少数である。しかし、宗教、土地所有、家族形態などにおいて、著しく違う彼らが、キリスト教徒によって、不当な取り扱いを受けてきたことは間違いない。多くの人が、これを「歴史的不正義」と呼んでいる。

MNLFとMILF

 1960年代末期には、バンサモロ(Bangsamoro、モロの人々と土地)の独立を目指して、モロ民族解放戦線(MNLF:Moro National Liberation Front)が結成され、武装闘争を開始した。

 MNLFはミンダナオ島やスールー諸島を中心に勢力を拡大し、海を挟んだマレーシアのサバ州の有力者の協力を得て、同州で秘密の軍事訓練も受けた。またイスラム諸国会議機構(OIC)を通じてイスラム諸国の支持を得た。リビアの革命指導者カダフィから資金や武器の援助を受け、パキスタンでは軍事訓練が行われたという。

 1972年、フェルディナンド・マルコス政権(1965~1986年)が戒厳令を布告すると、MNLFは国軍を標的とする武力攻撃を実行した。当時、戦闘員3万人といわれた。しかし、1976年、OICの仲介で、マルコス政権とMNLFは、ミンダナオなど14州の自治を約束するトリポリ協定を締結した。MNLFは独立ではなく高度の自治を目指すことに、目標を転換したのである。

 この転換を不満とする勢力は、1977年ころ分派を結成し、1984年にはモロ・イスラム解放戦線(MILF:Moro Islamic Liberation Front)として、正式に名乗りをあげた。その名のとおり、イスラムを運動の中心イデオロギーとしたのである。

分裂と激化の連鎖

 MNLFと政府との交渉は、長い中断ののち、1986年のマルコス政権崩壊後、コラソン・アキノ政権(1986~1992年)において再開された。1989年、自治基本法が成立し、これにもとづく住民投票が行われたが、協定を受け入れたのは4州だけだった。

 MNLFは、これは不完全な自治であると反発したが、翌1990年、この4州だけで、コタバトを首都として、ムスリム・ミンダナオ自治区(ARMM:Autonomous Region in Muslim Mindanao)が成立した(のち1州1市が参加)。

 ここに、MNLFは武装闘争の継続を宣言し、フィリピン政府も再交渉を拒否して掃討作戦を強化した。しかし、OICの仲介で、フィデル・ラモス政権(1992~98年)のもと、1993年に暫定的な停戦合意が成立し、自治交渉が再開され、1996年、最終平和合意(ジャカルタ協定)が成立した。

 一方、MILFは、イスラム国家の樹立を目標として武装闘争を続けていたが、1997年、ラモス政権のもと、停戦合意が成立した。しかし、ジョセフ・エストラーダ大統領(在任:1998~2001年)はこれを破棄し、MILFの拠点を1つずつ掃討しはじめ、MILFはジハード(聖戦)を宣言して対抗した。しかし、国軍の攻勢の前に、MILFも衰退に向かい、遊撃戦や無差別爆弾テロを行うようになった。

 グロリア・アロヨ政権(2001~2010年)になると、MILFとの和平交渉を進め、休戦協定が結ばれたが、2008年、また武力衝突が起こり、交渉は中断された。政府とMILFとの合意は、のちに述べるベニグノ・アキノ政権下の2012年合意までかかった。

 このような度重なる合意の挫折、交渉の長期遅延には、いくつもの理由がある。何よりも、MNLFと政府、MIFLと政府の間に信頼関係がないことである。その上、協定の内容や自治の範囲などについて、誤解があったり、対立があったりして、争いとなることが少なくなかった。MNLFとMILFの間にも信頼感はないし、MNLFとMILFの内部にもそれぞれ対立があった。

 その中で、MNLFやMINFのリーダーが、なんとか政府と妥協して和平協定を結ぼうとすると、内部の急進派が台頭して、分派し、武力行動に出るということが、何度も起こっている。

 政府の側では、こうした過激派の動きに不信をつのらせ、他方で、モロの力が徐々に衰えてきており、国民的な関心は薄れてきていることから、無用の譲歩をしないで放置すればよいという人が少なくなかった。

 過激派の分離については、1991年にMNLFから分離して、独自の武装過激組織であるアブ・サヤフ・グループ(ASG)が結成された。彼らはマニラ首都圏やボルネオにおいても誘拐事件や爆弾事件を起こすこととなった。

 MILFからは、2008年、フィリピン最高裁判所が、フィリピン政府とMILFが結んだ「先祖伝来の土地に関する協定覚書」を無効と判断したことを批判して、2010年、バンサモロ・イスラム・自由戦士(Bangsamoro Islamic Freedom Fighters:BIFF)が結成され、フィリピン国軍基地を襲撃するなど、武装闘争を開始した。さらにMILFから、2012年、マウテ・グループが結成され、2016年から国軍と衝突するようになった。

 こうしたグループは、孤立して過激化するとともに、IS(「イスラム国」)と提携するようになっていった。

アキノ政権下(2010~2016年)の進展

 ミンダナオ紛争には、OICのみならず、他の外国や国際機関も注目して関与するようになった。2003年の停戦合意の翌2004年には、国際監視団(IMT:International Monitoring Team)が設立され、日本も人員を派遣するようになった。そして2008年、土地問題の解決をめぐる国内調整に失敗し、武力闘争が再燃したときにも、IMTの活動は続けられた。

 2009年12月、フィリピン政府とMILFとが正式和平交渉の再開について合意した。これはマレーシア政府の努力によるところが大きかった。ここにICG(International Contact Group)が設立され、日本も参加を決定した。ICGは日、英、トルコ、サウジ・アラビアおよび4つのNGO(非政府組織)から構成され、ミンダナオ和平当事者への助言、和平交渉へのオブザーバー参加等が期待された。

 しかし、こうした動きをさらに進めるためには、強いリーダーシップが必要であった。それを提供したのが、ベニグノ・アキノ大統領であった。そしてそれを支えたのが、仲介者の日本であった。

 2011年8月、日本政府の仲介でアキノ大統領が極秘で来日し、MILFのムラド・イブラヒム議長と成田で極秘会談を行った。トップ同士の初の会合だった。相互不信を乗り越える大きなステップだった。

 翌2012年10月、アキノ大統領とMILFとの間にバンサモロ枠組み合意が調印された。そして、包括合意に進み、バンサモロ基本法を制定し、住民投票を行い、2016年にバンサモロ自治政府を作ることで合意した。

 2013年9月にはMNLFの兵士200名がフィリピン軍と戦闘を繰り広げ、和平合意への影響が懸念されたが、2014年3月、アキノ大統領とMILFのムラド議長に加え、仲介役を務めたマレーシアのナジブ・ラザク首相(当時)の立会いのもとで、バンサモロ包括合意が調印された。

 しかし、2015年1月、政府側とMILF の間で衝突が起こり、44名の警察部隊とMILFの兵士20名および民間人数十名が死亡した。

 その結果、国会におけるバンサモロ基本法への熱意が下がってしまった。2015—16年の国会では、基本法(BBL or BOL:Bangsamoro Basic Law or Bangsamoro Organic Law)は審議されたが、成立には至らなかった。

MILFのリーダーとの対話

 私が初めてミンダナオに行ったのは、2016年3月のことだった。アキノ政権で進むかと思われた和平が、基本法の不成立で水をさされ、失望感が現地を支配していたときである。

 当時の情勢は、IMTによれば、次の通りだった。

 第1に、政府との間の交戦違反は、無法グループすなわちASG、BIFFなどが、NGOや開発機関を対象とする恐喝、誘拐を行っている以外には、激減していた。第2に、中央政府とMILFのハイレヴェルでは信頼関係は堅いが、下層レヴェルでは不信が存在し、MILFでは司令官レヴェルにも不信感はあった。第3に、部族間対立はまだまだある、ということだった。

 なお、IMTは当時38名定員で、日本からは文民2名が派遣されている。日本が2国間協力だけでなく、多国間協力の枠組みにも入っていることは、その信頼性を高める所以である。

 私のミンダナオ訪問の直接的な目的は道路工事の竣工式だった。これはMILFの地域と周辺の町とを結ぶもので、農業地帯とマーケットを結びつけ、相互に利益をもたらす。私はこれを、スピーチの中で、Peace dividend in advanceと呼んだ。事前の平和の配当ということである。相互に不信があれば、相手の侵入を恐れて、このような道路は建設されない。相互往来で、信頼と相互依存が高まるのである。

 続けて、バンサモロ移行委員会(BTC:Bangsamoro Transition Commission)を訪れ、モハガー・イクバル委員長などに会った。

 イクバル委員長は、17年にわたる和平交渉、MILF、BTCの努力にもかかわらず、BBLが可決されなかったのは悲しい。しかし、和平プロセスは継続すると言ってくれた。

 ガザリ・ジャーファー副議長(当時。本年3月逝去)からは、日本からフィリピン政府に防衛装備品が提供されるといわれているが、それはバンサモロの人々を殺める可能性はないかという懸念が述べられた。私は、防衛装備品は外敵に備えるもので、国内で使われることは絶対にないと断言したが、彼らの内心の不信感には驚かされた。

 また、副議長はフィリピンの政治家の無関心を批判していた。たしかに、MILFも力は弱っており、放っておけばよいという感じはマニラにはあった。しかし、それは正義にかなうことではないし、また、過激化してISとの連携に走るようになる。そういう事態はできる限り避けなければならない。

 なお、ジャーファー副議長からは、ルソン島における日本の大型支援にふれて、ミンダナオは50年遅れている、より多くミンダナオに向けて支援をしてほしいといわれた。これもその通りで、極端な差が生じている。是正の方向を打ち出すべきだろう。

過激派とISの接近

 さて、私は、独立・自治運動が弱まったとき、政府がこれに乗じて運動を無視したりしていては、一部が世界のイスラム過激派と連動する可能性があると述べた。

 それが実際に起こったのが、2017年のマラウィ事件(あるいはマラウィの戦い)であった。

 ASG、マウテ、BIFFらがISと提携し、マラウィ市を占拠したのに対し、政府は戒厳令を布告して、当初3000人、のちに6500人の兵士を投入し、米軍特殊部隊まで参加して、これを掃討することとなった。掃討は、2017年5月から10月まで続き、犠牲者は政府側で165名、IS側で974名という大規模なものであった。

 日本から4時間ほど、北部は豊かに発展し、中部は観光の名所の多いフィリピンで、このような事件が起こっているのである。

 その頃、南部のダバオ出身のドゥテルテ大統領が就任しており、大統領はバンサモロ問題の解決を重視する方針を明らかにしていた。そして、マラウィの戦いを鎮圧したあと、2018年、BOLを成立させた。そして2019年1月と2月、住民投票が行われ、2月22日、バンサモロ暫定自治政府(BTA:Bangsamoro Transition Authority)が発足した。

日本の支援

 ここで、日本の協力の経緯・内容を簡単にまとめておこう。

 JICAのミンダナオ西部地域への協力は、古くは1978年からのサンボアンガ漁港整備に始まり、島嶼部の空港施設拡充(1986年~)、給水施設整備(1989年~)、灌漑施設整備(1990年~)などが続いた(いずれも円借款)。青年海外協力隊も1989年にサンボアンガに派遣されている。灌漑事業は、90年代半ばのフィリピン政府軍とMILFの間の武力衝突の影響により、一時、撤退・中断されたが、2003年に完工まで至っている。事業の効果として195人の戦闘員が農業に希望を見出し、武装解除したとの報告もある。

 1996年9月にフィリピン政府とMNLFが最終和平合意を締結した直後は、治安状況がきわめて不安定な中で、フィリピン国軍の重装備部隊の護衛に守られながら、JICAの日本人職員がドナー(支援者)会合に出席し、ARMM自治政府及びコタバト市庁との対話を積極的に展開した。

 2006年に日本とフィリピンは国交正常化50周年を迎え、同年7月にマニラを訪問した麻生外務大臣は、「ミンダナオ和平プロセスに対するより積極的な支援」を発表し、IMTにもJICA職員が派遣されることとなった。

 同年9月、JICAの緒方貞子理事長(当時)が、アロヨ大統領(当時)やムラド議長と会談を行い、MILFキャンプも訪問した。和平交渉は極めて難しい段階に直面しているが、すべての利害関係者がミンダナオの和平を切に願っていることがわかったと所感を残し、帰国後すぐに、ミンダナオ地域への協力の拡大を求めた。

 そしてその年の12月、安倍首相がフィリピンを訪問し、J-BIRD(Japan Bangsamoro Initiative for Reconstruction and Development)を立ち上げた。

 それは、包括性に配慮して1つのミンダナオを目指し、キリスト教徒、ムスリム、先住民(15民族いるらしい)の共存を目指すこと、そして現場のニーズに寄り添って平和の配当を実現することであった(先に道路の例をあげたとおりである)。つまり、ARMM政府およびMILFの能力強化を行いつつ、社会経済開発支援に取り組もうとするものだったが、これは、日本が、フィリピン政府とMILFの両方から強い信頼を得ているがゆえに可能なことだった。

 さて、暫定政府ができたところで、さらなる支援が必要となっている。

 第1は、兵士の帰還等に関する支援である。これまで戦っていた兵士たちをいかにして生業につかせるかは、あらゆる紛争において、もっとも重要で困難な仕事の1つである。

 第2は、新自治政府設立に向け、暫定政府の能力強化を支援することである。MILFにしても、抵抗勢力であって、自ら統治した経験がない。そのための制度構築、人材育成、組織改善などを含む地方自治体への協力が不可欠である。

 第3にコミュニティ開発である。公共サービスの改善、農業の振興、灌漑の整備、淡水魚養殖、その他の生計向上によって、コミュニティが自立できるようにしなければならない。

 第4は経済開発である。道路整備による連結性の強化や電化率の改善は地域の平和を後押しする。

 第5はとくにマラウィ復興支援である。激しい戦闘で多くのものが失われた。その復旧復興は喫緊の課題である。

 第6は、和平交渉への側面支援である。上述の日本の支援の中での開発専門家派遣、IMTへの人員派遣を続け、様々なステークホルダー(有識者、地元有力者、NGOなど)とのネットワークを構築し、信頼醸成を進めなければならない。

 このような支援を具体的に担っているのはJICAである。

 ドゥテルテ大統領は、南部における日本とくにJICAの役割について、絶賛というに近い評価をしてくれている。これを鵜呑みにして喜んでいてはいけないが、相手側の立場に寄り添って、息の長い、泥臭い仕事に従事してきたことは確かである。

 ともかくバンサモロは貧しい。フィリピン全土の経済レヴェルを100とすると、マニラ地域が300で突出しており、ミンダナオの首都のダバオが100、そして先にもふれたARMMは20である。5分の1しかないのである。

これからのバンサモロ

 私がミンダナオに行ったのは、BTAが発足した少しあとの4月のことだった。

 2019年4月9日、MILF和平履行パネル議長兼BTA基礎・高等・技術教育省大臣たちと会った。

 彼らもかなり歳をとったという印象だ。

 長年のJICAの協力に対する謝意が述べられるとともに、50年にわたって戦い続けてきたMILFには、統治の経験がなく、支援がほしいと述べられた。

 私からは、状況が難しいことは理解しているが、JICAが関係しているアフガニスタンや南スーダンやコロンビアや東ティモールと比べ、必ずしも悲観すべきではない、MILFは統治の経験はないと言われるが、戦闘のためにはロジスティクスが必要であり、それをこなしてきたことは、統治経験の立派な一部であると激励した。

 また、南スーダンにおける国民結束の日(National Unity Day)を紹介し、スポーツによる住民和解を提案したところ、関心を示した。昨年インドネシアで開かれたアジア大会では、ミンダナオから参加した選手がメダルをとっていると紹介してくれた。それは、重量挙げやアジアの伝統的な武道などであった。

 そして何よりも重要なのは、信頼関係だということだった。先方は、バンサモロと関係の深いあるJICA職員を指名して、もう一度現場に戻してほしいとまで言ってきた。この問題への関わりが13年におよび、MILFにも政府にも、信頼の深い人物である。それに準じる職員も、いる。JICAの一番の貢献はこのあたりかもしれない。

 今回のミンダナオ訪問では、ダバオを訪ねた。ダバオはかつてドゥテルテ大統領が市長を務め、今はその娘さんのサラ・ドゥテルテ氏が市長を務めている。2人とも絶大な人気を誇っている。

 ダバオはかつて東南アジア最大の日本人コミュニティがあったところである。マニラ麻の生産のため、20世紀初めから移り住んだ日本人の手で開発された。その繁栄の上に、学校や病院や、様々な施設があった。

 敗戦によって、それらはすっかり失われた。しかし日本人の影響力の痕跡は至るところにある。ミンダナオ国際大学という学校があり、小学校から大学まで、日本語と英語を教え、地元の人にも大人気である。

 ダバオの発展の鍵となる道路、トンネル工事の現場も見に行った。フィリピン最初のトンネルだという。

 バンサモロが発展すれば、さらにミンダナオの発展は加速するだろう。

おわりに

 さて、最近の世界の方向は、アイデンティティの模索ではないかと思う。グローバリゼイションのなかで、われわれは何者なのかという根源的な問いが、多くの国の外交の根底に浮上していると思う。ロシアの軍事大国化、アメリカ・ファーストがそうだし、トルコの脱世俗化は、ヨーロッパから門戸を閉ざされたトルコが、オスマントルコの伝統を模索しているというように見える。

 フィリピンでも、アメリカの統治という歴史を見直す動きが生まれている。アメリカは英国の植民地から独立した国であって、植民地は持たないというのが、米西戦争までの原則だった。この伝統を破ってフィリピンを領有したが、それはフィリピン人のためのよい統治であって、いわば白人の責務(white man’s burden)とアメリカでは教えられ、またフィリピンでもそう教えられていた。しかし、実は1898年にはフィリピンは独立の用意ができていたのに、アメリカに侵略され、支配されたという解釈がいまや主流となりつつある。本当にフィリピンが当時自立できたかどうかは、異論もあるかもしれないが、アメリカがフィリピンを平定するのに20万人が殺されたというのは事実である。決して文明の統治ではなかったのである。

 南部出身のドゥテルテ大統領の対米感情は、微妙なものがある。大統領就任以後、まだ一度も欧米に出かけていない。その一方で、大統領は、日本の協力に感謝する、とくにJICAの協力に感謝すると、繰り返し述べてくれる。なかば冗談で、もし日本に何かあれば、自分は5000の兵士をただちに日本のために派遣する、と述べるほどだ。

 JICAの職員でMILFなどと接触し、長く支援してきた人たちは、根源的に、キリスト教徒のフィリピンでの行動には、問題があったのではないか、MILFは一見したところテロリストであり犯罪者に見えるが、その根底にはスペイン、アメリカの統治の問題があったのではないかという意識を持っている。

 かつてフィリピンはスペイン帝国の一部だったので、やはりスペイン帝国の一部だったメキシコのアカプルコとマニラの間で、定期的にガレオン船による貿易が行われていた。主な商品は東南アジアや中国の産物だった。1609年には、航海の途中、房総半島沖(現在の御宿の沖合)で座礁して、村民の好意に助けられ、また徳川家康は彼らために船を建造して、アカプルコに戻ったというエピソードもある。したがって、メキシコと日本の交流は400年以上の歴史を持っているのだが、同じことはフィリピンとの間についても言える。地理的に見て当然だが、フィリピンと日本の間には、かなり長い歴史があるのである。

 加えて戦前のダバオを中心とする関係があり、戦後の関係がある。

 第2次世界大戦のさなか、中国につぐ犠牲者を出したのはフィリピンである。しかし日本は謝罪し、賠償し、長年の経済協力や青年海外協力隊の活動によって、フィリピンとの関係を改善、強化してきた。フィリピンのアイデンティティは、先住民の歴史、イスラムの歴史、スペインの歴史と重層的に発展したが、日本との関係も、その重要な一部といってよいだろう。

 ミンダナオ和平への日本の貢献は、人道主義的な行動であると同時に、日本とフィリピンをさらに結びつける重要な意味を持っている。

【編集部より】2017年4月から今年1月まで連載しました「日本人のフロンティア」をまとめた、北岡伸一さんの『世界地図を読み直す 協力と均衡の地政学』(新潮選書)は好評発売中です。

北岡伸一
東京大学名誉教授。1948年、奈良県生まれ。東京大学法学部、同大学院法学政治学研究科博士課程修了(法学博士)。立教大学教授、東京大学教授、国連代表部次席代表、国際大学学長等を経て、2015年より国際協力機構(JICA)理事長。著書に『清沢洌―日米関係への洞察』(サントリー学芸賞受賞)、『日米関係のリアリズム』(読売論壇賞受賞)、『自民党―政権党の38年』(吉野作造賞受賞)、『独立自尊―福沢諭吉の挑戦』、『国連の政治力学―日本はどこにいるのか』、『外交的思考』、『世界地図を読み直す】など。

Foresight 2019年7月8日掲載

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