ジャニー喜多川氏「実は最近、ウチの子がみんな同じ顔に見える」と漏らしていた

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 数多(あまた)の男性アイドルを発掘し、国民的なスターへと育て上げたジャニー喜多川氏(87)。入院情報がさまざまな憶測を呼ぶ「稀代のショーマン」の原点は、彼の生まれ故郷、米・ロサンゼルスにあった。

 ジャニー氏の父親は、真言密教の開教師だった喜多川諦道(たいどう)氏。両親はともに日本人だが、父親がロサンゼルスのリトルトーキョーにほど近い、「高野山米国別院」に赴任していた1931年に生を受けている。

 まもなく一家は日本に帰国したものの、ジャニー氏は終戦後にロスへと戻り、現地の高校に進学する。

 かつて現地でジャニー氏の足跡を訪ねたノンフィクション作家の秋尾沙戸子氏によれば、

「諦道師はお茶目で企画力があり、ロスの日系人、主に女性と子どもに抜群の人気を誇っていました。妻が日舞の名取だったこともあって芸能にも造詣が深かったようです。ご本尊の前を仕切れば、手前がステージになるような本堂を建て、柔剣道の稽古やコンサート会場に使わせていた。戦後はその本堂で女優の田中絹代や山本富士子、美空ひばりがショーを開いたそうです。“そこでヒー坊は、カメラマンが撮影したスターのブロマイド写真を売っていた”と地元の日系人が話してくれました」

 ちなみに、「ヒー坊」とはジャニー氏の本名「擴(ひろむ)」に由来する愛称である。

「その日系人は、“早くにお母さんを亡くしたヒー坊にとって、姉のヤッちゃんが母親代わりだった”とも語っていた。ずいぶん後になって、“ヤッちゃん”が若い日本人を連れてロスを訪れ、近くのベニスビーチでローラースケートの練習をさせていたこともあったとか」(同)

 ジャニーズとローラースケートと言えば光GENJIを思い出すが、この「ヤッちゃん」は「藤島メリー泰子」、つまり、メリー喜多川氏を指している。

 エンターテインメントを好む父親のもとで育てられたジャニー氏と長年の付き合いがある、『異能の男 ジャニー喜多川』の著者・小菅宏氏はこう語る。

「初めてお会いした時、ジャニーさんは“高校時代にロサンゼルスの劇場で見たミュージカルに感銘を受けた”と話していました。これが彼の出発点で、最終目標は日本でミュージカルの世界を完成させることにある。そのため、まだ原石の少年を発掘する時は、ルックスよりも運動神経を重視するのです」

 その後、再び日本へと戻ったジャニー氏は、駐日アメリカ大使館に勤務し、渋谷区代々木にあった「ワシントンハイツ」で暮らした。後に東京五輪の選手村となる、この在日米軍向けの宿舎のグラウンドで、彼は「ジャニーズ」という少年野球チームを指導していた。

 メンバーだったあおい輝彦ら4人は、1962年にこのチーム名で芸能界デビューを果たすことになる。

 以降、ジャニー氏は、フォーリーブスやたのきんトリオ、シブがき隊といったグループを続々と成功に導いていく。

 小菅氏が続ける。

「それから半世紀以上に亘って事務所を存続させてきたジャニーさんは、常人とはかけ離れた宇宙人のような感覚の持ち主。何しろ、“12~13歳の子の顔を見れば、40代になった頃の顔が分かる”と言うんですから。ただ、10年ほど前にお会いした時、珍しくこんなことを漏らしたんです。“実は最近、ウチの子がみんな同じように見える”って」

 若き日にロスの寺院でショービズの世界を夢見たカリスマにも、老いは静かに忍び寄っていたのである。

週刊新潮 2019年7月4日号掲載

特集「『ジャニー喜多川』重篤の『前震』『本震』『激震』」より

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